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離婚裁判百選⑭番外編江戸時代の離婚Ⅱ

江戸時代の離婚は、離縁と呼ばれていました。三行半と呼ばれた離縁状を渡す必要があったことはご紹介しました(実は武士の場合には、両家の当主から双方熟談の上離縁となった届け出があればよかったそうです)。熟談、とは今でいう協議離婚が必要で、夫からの離縁状のような一方的な離婚は認められていなかったようです。庶民の場合には、離縁状が原則必要でした。

『縁切寺』は、全国に二か所しかなかった(鎌倉と群馬県太田市)のですが、これ以外にも、どうも全国各地の武家屋敷、代官所、陣屋、庄屋、寺院、修験寺といったその地方地方で権威ある場所への駆け込みを認め、これをもって今でいうところの離婚訴訟提起と扱われていたようです。こうした事象をもって、妻側の救済手段が多くあったこと、妻の実家や仲人などの仲介が慣習としてあったことを指摘し、離縁を要求することができるのは実は夫だけであると指摘する夫専権離婚説は批判されています。

しかし、おもしろいのは、日本の離婚に関する法律は、離婚のやりかた、には関心を払って法律ができてきた(明治になって妻側からも離婚訴訟を正式に提起することができるようになりました)。すなわち、夫が専権的に離縁状を出すことができた慣習これらが協議離婚の原型になっていき、妻側にも離婚請求をすることができるようにするために、裁判離婚が導入されたといえるのです(内田貴「民法Ⅳ」94頁(東京大学出版会,2002)。前橋藩では、武家屋敷に駆け込み3年間奉公すれば再婚ができ、熊本藩では武家屋敷に駆け込み奉公すれば離縁の私的あっせんがあったそうです。やはり、ここでも、どうすれば離婚ができるのか、にフォーカスされ、離婚の「要件」論にはあまり注意が払われていません。実際の離縁状には「不熟につき」程度しか離婚原因は記載されていなかったのです。

 現行民法のように、相手の不貞行為や相手の悪意の遺棄、が離婚原因なのではなかったのです。


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