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アスリートの闘いに感動したあとに想う

初めに、言っておくと私は特に仏教の
信者ではありません。
単に「良いもの、心に響いたもの」は
単に素直に取り入れたいだけです。

【お寺の掲示板85】分ける心が苦しみ
をもたらす

という記事をご紹介します。

(ダイヤモンド・オンラインより引用)

 昨日9月5日、東京2020パラリンピック
が閉幕しました。
競技大会と共にこの1カ月余り、出場し
たアスリートたちの懸命な姿から元気
をもらったという人は多かったことで
しょう。
 一方でこの競技大会は、アスリート
にとっては非常に残酷な場でもありま
す。
上位3人(組)だけが表彰台で金銀銅
のメダルを授与され、祝福される者と
されない者、勝者と敗者が非常に分か
りやすい形で誕生します。
メダルを目指して懸命に努力してきた
アスリートの中で、その願いが叶えら
れるのはごく一部であり、多くは悔し
涙を流します。
 勝or敗、速or遅、美or醜、強or弱、
善or悪……。
私たち人間は、さまざまなものを心
の中で勝手に2つに分けて捉えます。
これを「分別心」といい、実はこの「
分別心」が人間に苦しみをもたらしま
す。
心の中で分別されたものは、相対する
ものであると同時に相争うものでもあ
るため、分別心を持っている人間は常
に漠然とした不安を心に抱えることに
なるからです。

仏教では「分別のある大人になりなさ
い」とは決して言いません。
仏教の目指すべき境地は「分別」では
なく、「無分別(不二)」の境地にあ
ります。
『維摩経』という経典の中に、この分
別・無分別に関する有名な問答があり
ます。
在家居士の維摩詰(ゆいまきつ)は、
仏弟子から「無分別(不二)の境地
に入るにはどうすればよいか?」と
問いかけられます。
 そのとき維摩詰は何と答えたのか。
「沈黙」でした。
最初、周囲の人たちはこの答えの意
味が分からず、彼が黙っているのか
と思ったようです。
その沈黙が長くずっと続く中で、文殊
菩薩が「文字や言葉さえ届かない。
これが真に不二の法門(無分別の境地)
に入るということなのだ」と褒め讃え
たのです。
私たちは常に言葉を使って思考します。
言葉を発すれば、そこに分別が必ずつ
きまといます。
ですから、無分別(不二)の境地を表
すために、維摩詰はあえて言葉を使わ
ずに沈黙という手段を用いました。
これが、有名な「維摩の一黙」という
エピソードです。

では、沈黙する以外で言葉(分別)か
ら離れられない私たちが分別を越える
にはどうすればよいのでしょうか?

 その答えは、分別した二元の双方を
肯定して受け入れること以外、他には
ありません。浄土真宗の妙好人
(篤信な信者)として知られた源左さ
んは、どんなことでも「ようこそ、よ
うこそ」と必ず受け取っていたと伝え
られています。
晴れもようこそ、雨もようこそ
自分にとっての勝ちや負け、都合のよ
いことや悪いこと、それら全てをあり
のままに肯定して、「ようこそ、よう
こそ」と受け取る。
そうすればこの世界に無駄なものが一
切なくなり、分別(二元)が意味を持
たなくなります。

この夏のオリンピックとパラリンピッ
クは、ある意味「分別の世界の象徴」
です。勝者と敗者、光と影が残酷なま
でに生み出され、そこで繰り広げられ
る悲喜こもごものドラマに、分別の感
覚を持って生きている私たちは強く共
感させられます。
しかし、仏教の無分別の観点からすれ
ば、そこには勝者も敗者も光も影も全
く存在しません。
掲示板の文言のように、参加した全て
のアスリートも、参加していない人々
も、「みなが一位で金メダルである」
ということを忘れないでいただければ
と思います。


心の中で知らないうちに「分別」して
いることは、多々ありますね?
〈みんなちがってみんな良い〉/金子み
すゞ、「ありのままで」の精神でいら
れれば心が楽ですね。


でも、ゴミの分別はちゃんとしましょ♪


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