知識を得る3つの方法:ひとつの哲学的分類
先の投稿で、「知識とは?」というテーマを扱いました。その結論は、知識とは、現実を、可能性上に、特定するもの、という内容でした。この定義にもとづいて、知識を獲得するための方法を、3つに分類したいと思います。それは、次のようなものです。
ⅰ.現実をよく観察して、考えられる可能性をはじき出す。
ⅱ.可能性をよくデザインして、現実をよく特定できるように、可能性の精度を上げる。
ⅲ.現実の観察と、可能性のデザインを、互いに調整しながら詰めていく。
ⅰは「観察説」、ⅱは「デザイン説」、ⅲは「調整説」と呼びたいと思います。観察説は、大雑把に言って、アリストテレスの採った方法だと思います。彼は、言葉の観察から、存在には10のカテゴリーがある(実体・性質・量などなど)と考えたり、物事の原因としては4つを挙げることができる(形式(何であるか)・素材(何からできているか)・目的(何のためにあるか)・作用(何によって生じ始めたか))と考えたりしました。それは、現実をよーくよーく観察して、現実においてありうる可能性を、直感的にはじき出す、という知識の方法です。
ただ、観察説では、現実についての可能性が、可能性としてそれだけなのか、決定することができません。観察をもっと綿密にすれば、また違う可能性が見出される余地が、常にありうるからです。たしかに、存在のカテゴリーとして、11番目の存在を考えることは難しそうです。でも、それがまったくありえない、ということを、保証するものはありません(例えば数学上の存在は、もっと違う風に列挙できるかも)。そのため、観察説での知識には、必然性がなく、その知識は蓋然性にもとづく、ということになります。
それに対して、デザイン説は、数学の知識に、よくあてはまります。例えば、小学校で習う円の定義は、「平面上において、ある定点から等距離にある点の集まり」とされています。この定義は、純粋な可能性上だけのもので、現実を説明しようとするものではありません。というのも、円についての知識を、現実の観察だけで獲得しようとしても、その知識(例えば「フラフープが円だ」)は正確ではありません。でも、先の定義のように可能性をデザインすると、その可能性は、現実における円を、一般的に特定できます。
現代の自然科学は、このデザイン説にもとづいた知識を体現しています。例えば、複雑難解な現代の物理学は、観察説のような、現実から直感的にはじき出される可能性を、ほぼ完全に排除して、純粋な数学上の関係性において、可能性を規定することで成り立っています。数学的に規定されない概念は、現代の物理学では(ほぼ)ありえないのです。それは、可能性を、ただ可能性上において精緻にデザインして、現実を特定しようとする知識を表しています。
ただ厄介なのは、知識を得るために、可能性だけを、可能性にのみもとづいてデザインしようとする場合、明確に規定される可能性しか使用することができず、知識はただ必然的にのみ成立する、となる点です。知識とは、現実を「特定」するものであるため、デザイン説の場合、現実を可能性上のデザインにおいて「特定」する必要が生じ、その特定をするためには、曖昧な可能性は一切排除しなければならないからです。そのため、日常の知識(一定の曖昧さがあります)とされるものは、観察と、可能性のデザインをともに使いつつ、その調整によって現実を特定する、少しルーズな調整説的なもの、かもしれませんね。