ヤスオ兄ちゃんの思い出
自分らしさを取り戻すということを意識しながら過ごして早1ヶ月になる。
時折思い出すようになったのが、幼少の頃に可愛がってくれていた人たちだ。
母はスナック喫茶を営んでいて(昼間は喫茶店、夜はスナック)、常連さんも多かった。自宅の半分を改装してお店スペースになっていたので、壁を一枚挟んで住居とお店と分けられていた。
母は夜中までお店に出ていた。僕と妹の世話はほとんど祖母がやってくれていた。
寝るのも祖母とだったので、母と接するのは、朝食の時だけ一時的に起きて登校を見送ってくれるときと、お店の買い出しのときにタイミングがあえば車で一緒にスーパーへ連れていってくれるときくらい。
幼かった僕と妹は、やはり母恋しさに学校から帰宅すると、お店につながるドアからこっそり顔を出して母を呼んだ。
お客さんがいないときや、母と親しい常連さんが来てるときは、時々お店の方へ来てもいいと許しがでた。
そういうときは大喜びで、お店のカウンターに座ってジュースを出してもらって飲んでたものだ。
常連さんのなかには、ハタチ前後の若いお客さんもいて、そんな幼い僕たちに声をかけては可愛がってくれる人もいた。
今思えば、サバサバしたちょっとワル目の人たちが多かった気がするが、僕たちは「○○にぃちゃん」「△△△ねえちゃん」と呼んで懐いていた。
そんな中に「ヤスオにぃちゃん」という内装の職人さんがいた。外国人みたいな顔で彫りが深く、僕を呼び捨てで嬉しそうに呼んでくれるにいちゃんだった。
一度、僕を車に乗せてドライブに連れていってくれたことがある。中学生のときだったか。その時に「お前が免許取れるようになったら、俺のナナハンを譲ってやるからな!」そんな約束までしてくれた。
ナナハンは、国内で乗ることが出来る最大排気量の大型バイクで、当時は男の憧れの対象だった。
僕は当時痩せてひょろひょろだったので、「もっと肥えないとな!」とよく笑いながら言われたものだ。
ヤスオにぃちゃんとは、家族ぐるみで仲が良いと思ってたのだが、そうではなかったことに大人になってから知った。これに関しては後半に書こうと思う。
実は僕はバツイチだ。
大学を卒業してすぐに年下の女性と入籍した。大学は実家を離れて関東の大学に通っていたが、バイト先で知り合った女性だった。
結婚して3年目に妻の浮気が発覚。それを機に離婚に至った。
東京に暮らしていたが、離婚して田舎に帰ることにした。
その頃にはもう母は「体力の限界」を宣言して、惜しまれつつ喫茶店を閉じてしまっていた。
しばらく地元のフランス料理店で働かせてもらってるうちに、自分でカフェを開きたいと思うようになった。
母の喫茶店があんなに繁盛していた。同じ場所でやるんだし、きっとうまくいくにちがいない。自分のお店なんて、しがらみもなにもない自由な空間だ!
夜はお酒も出していたので、カフェというよりはカフェバーっぽくなっていた。
あるとき「ヤスオにぃちゃん」が同じ職人仲間を大勢つれて、お店に飲みに来てくれた。
僕が成人になって初めて会った。ヤスオにぃちゃんはすっかり親方風情で、お兄ちゃんという雰囲気ではなかったけど、「ヤスオにぃちゃん!」と呼ぶととても嬉しそうな顔をしてくれた。
「全員に生ビールと、メニューにあるの全部もってこい。あ、カレーはルーだけでいいから。」と威勢のよい注文。(ボサノバが流れる店内は場違いだったに違いない。演歌かロックンロールでも流せばよかった。)
生ビールをしこたま飲んで、酔いがまわってきたのか職人さんのひとりが「お前、女房に逃げられたんだってな〜」と絡んできた。
返事に戸惑ってると、ヤスオにぃちゃんが「やめろ。俺たちにはわからん苦労があったんやろ!」とぴしゃり。
絡んできた職人さんは黙ってしまった。
ヤスオにぃちゃんのこの言葉は僕の心に刺さった。親でさえそんな風に言ってくれたことはなかった。
離婚して実家に帰ってからというもの、周囲の目はあまりよくなかった。都会に行って大学卒業後、東京の人と結婚。すぐに離婚して田舎に帰ってきたというのであれば、仕方ないことだった。
「浮気したのはむこうなんだ。」と自分に言い聞かせるも、まるで自分が悪いことをしたような気持ちがまとわりついていた。
ヤスオにぃちゃんの言葉を聞いて、初めて「自分は苦労したんだ」と思うことを許されたように感じた。周りの目など気にせず、自分は自分でいいのかもしれない。
ヤスオにぃちゃんに、離婚の経緯など話したこともなかった。そういえば、昔のようにドライブに誘われるということもなくなっていた。
カフェの経営は、3年ほどで終わった。
そのお店は、キッシュのことをキャッシュと呼ぶような田舎にはお洒落すぎたし、友人とコーヒーを飲みたければマクドナルドかドリンクバーのあるファミレスに行けばいい時代になっていた。
そして、自分の気持ちの変化が大きかった。
「この田舎で、一生カフェをやり続けるのか?」
そう思うと、ぞっとした。
日に日にこの気持ちが大きくなり、自分には合っていないと感じた。
やっぱり、人って弱ってるときに決めたことってダメだ。
自宅だったので、カフェをオープンするのにそれほど費用はかからなかったけど、国民金融公庫から融資を受けた借金はまだ残っていた。
仕事を紹介してもらい、大阪で4年間働いた。
数年ぶりに実家に戻ると、カフェだったところは妹が改装して美容室にしていた。(妹は美容師の旦那さんと結婚していた)
実家の住居スペースもだいぶ古くなっていたので、妹と相談してリフォームすることにした。物置になっていた部屋を壊し、ほとんど自然光が入っていなったリビングに大きな窓をつけた。
壁紙を貼る段階になって、当然ヤスオにぃちゃんに頼むものだろうと思っていたら、別の職人さんがやってきた。
「あれ?ヤスオにぃちゃんに頼まなかったん?」と父母になにげなく聞いたところ、父親は渋そうな顔をして「死んでしまった」と言った。
「はっ?いつ?」
僕が大阪に住んでる間に病にかかり、そのまま帰らぬ人になってしまったとのことだった。
「なんで、知らせてくれんかった??」と両親にくってかかったが、自分たちも葬儀には行ってないと言う。
「あいつは、あんな感じだったから・・」と父親は意味深げにいった。
特に母親の方が、ヤスオにぃちゃんに対してよいイメージを持ってなかったらしい。僕と親しげにするのも好ましく思ってなかったようだ。
家族同然の付き合いじゃなかったん・・・?
しばらく悲しみと怒りと両親への不信感で、なにがなんだかわからなかった。
お店をやめたあとの母は、別人のようだった。
田舎を出たこともなく、若い頃から商売をしてきた母は、お客さんとしての人の付き合い方しか知らない人だった。
お客さんとして接する必要がなくなってからは、僕からみればずれていることを悩んだ末に実行していた。
僕が仲良くなった女性や人間関係に干渉していたり。それも僕の知らないところでこっそりだ。そして何事もなかったように嘘をつく。
後日、本人から母親が直接家にきたという話を聞いて、初めて知る。
ヤスオにぃちゃんは、約束を守ってナナハンを僕に譲ってくれるつもりだったのかもしれない。母親がそれはやめてくれと断ったのではないだろうか。
僕は母のそういうところが好きではない。僕を守ってるつもりなのか。
人を守るというのは、こっそりやるものではない。ましてや嘘をついてやるものでもない。
本当に守られているとき、自分は守られてるという感覚が生まれる。それが自己肯定と安心感に変わる。
口の悪い職人さんから守ってくれたヤスオにぃちゃんは、身を以てそれを教えてくれた。
ヤスオにぃちゃんが僕から距離をとるようになってしまったのは、両親の気持ちを察して、僕のためを思ってなのかもしれない。
それは違う。僕はもっとヤスオにぃちゃんにいろんなことを教えて欲しかった。一緒にバイクに乗りたかったし、飲める年齢になったら一緒に飲みに行きたかった。今はこんなに幸せに暮らせるようになったと報告したかった。
それは叶わないのはわかってる。
それでも、いつか会えて「ヤスオにぃちゃん!!」と呼ぶと、あの嬉しそうな顔をしてくれる気がしてならない。
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