みんなと一緒に右倣えできない性格は今も健在でした。
『noteを始めました。』にもちょっと書いたけど、
僕はまわりが「うわぁー」とばかりに始めたり、興味を持ったりすると、「あ、もういいや...」ってなってしまい、一気に熱が冷めてしまう。
周囲が一斉に同じ方向を向くと、自分だけ別の方向を向きたくなる。
流行し始めるともうダメだ...
先日『NoCodeとの付き合い方。「キミに決めた!」』というnoteを書いた。なんだか書きながら違和感をぬぐえなかった。
なぜなら、その時点でブログやnoteなどで「ノーコード」について書かれた記事や、Twitterの肩書きに「@ノーコード」を付けてる人が爆増してたから。
世の中でこんなに騒がれ始めたノーコードについて、自分が発信することに冷めてしまった。
(このノーコードの記事、消してしまおうかと思ったけど、自分の足跡として残しとく。)
自分はこどもの頃から、興味の対象が流行するともうダメらしい...
だいぶ昔の話で恐縮だけど、友達の間で「ドラクエ」や「FF(ファイナルファンタジー)」がブームになったときに、パソコンで「Wizardry」やってるような小学生だった。
中学生の頃は、周囲がはなやかな英語塾に通ってるのに、市民公民会で開かれてた「中国語講座」にお年寄りに混じって、中国語を勉強することにハマった。
Windowsが発売されたときなんか、あんなにパソコンが大好きだったのに、世間がわぁーとパソコンに飛びつくと一気に興味喪失。
イギリスやカナダに留学に行く友人たちを横目に、自分は台湾に留学したり。
なんといえばいいんだろ、みんなが「わぁー」と飛びつくその中にただ入りたくない。
日本でタピオカミルクティーなんて飲むわけない。
・・・ これって性格がひねくれてるだけか。(苦笑)
逆に、Jazz好き、国際結婚、田舎移住・・・ そういったものが象徴しているように、少数派のなかにいるのが自分にとっては楽。
他の人と違うことが心地いい
最近「僕が僕であることをちゃんと取り戻す」ことについて、自分のありのままの感覚を文章にする作業が、まるでJazzピアノを聴いてるかのように心地よい。
Jazzのアドリブがその演奏者だけ、その瞬間だけのものであるように、自分の内面からでる文章はこの世に同じものはない。
「ああ、この文章は自分だけにしか書けないし、世界にひとつだけなんだなぁ・・!」という感覚が、自己満足を満たしてくれる。
それに、こんなにも情報があふれている世の中にあって、他の人が発信してる情報(もしくは他の人が発信できる情報)を自分も発信する必要があるんだろうか?
なんか、そういうのに気がついてしまった。
ブームが過ぎたモノたち
ちなみに、モノによってはその流行ってる対象に興味がなくなってるわけではない。世間から忘れられたり、話題にされなくなったときに、ふと手に取る気になったりする。
例えば、「FF8(FINAL FANTASY 8)」。
発売前後は、騒がれすぎて冷めてしまい、プレイする機会を失ってしまったことがある。
発売されて数年たってから、FF8をプレイしたらエンディングで泣いてしまった・・・。
昨夜は、NHKで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」が放送された。
11年も前の映画で、僕は超がつくほどエヴァンゲリオン好きなのに観たことなかった。
11年前にブームになってタイミングを逸し、いつかゆっくり観たいとずっと心の片隅にあった。
夜中に放送されていたのはありがたい。ゆっくり観劇したら、結果としてとても面白くて、テンション上がりっぱなし。
みんなが11年前に体験してることを、11年後の僕が体験してるんだよね。笑
こんなに面白いなら、はやく観ておけばよかった・・・?
そんな経験もあるのに、やっぱりみんなと一緒に右倣えができない。そのことがこのノーコードの一幕で再認識できた。エヴァ破は、昨夜が僕にとってのタイミングだったに違いない。
こういう性格だと再認識できたので、きっともう後悔はしない。
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