見出し画像

関心の変化② 自己責任・特権性・不可視化

前回のnoteでは、「格差」を起点に「貧困」「分断」「排除」と私の関心が広がっていったというようなことを書きました。今回はその続編です。前回のnoteを読んでいない方は、このnoteを読み終わった後でもよいので是非みてみてください。

関心の変化を貫く自分史

私は、社会的排除を行うマジョリティ(強者)の側に興味を持つようになりました。なぜ興味を持つようになったのかを知ってもらうために、少し私の過去の話をしたいと思います。

小学生の頃、私は勉強や運動がよくできるけど人前に出るのは少し苦手な子どもでした。親は自分のことをのびのびと育ててくれたので、いつも楽しく過ごしていました。5,6年生になると、放課後はほぼ毎日児童館に行ってバスケをしていました。

一方で、自分の家が少し他の家とは違うということも感じるようになっていました。

中学生になると、自分の家はあまりお金がないのではないかと意識するようになります。そして私は、ゲームやスマホを買ってもらえないことやディズニーランドに行ったことがないことなどについて、親に文句を言うようになりました。

友達がコンビニでお菓子を平然と買っている様子をみて羨ましいと思う、制服を週に何回洗濯するのかという話になった時に我が家の洗濯頻度が少なくて友達に驚かれる、公園で遊ぶとき友達はスニーカーを履いているけど自分だけ学校指定の通学用の運動靴を履いていて恥ずかしくなる。こうした些細な出来事が今でも鮮明に思い出せるのは、当時の自分が小さくも確実に傷心していたということでしょうか。

高校は地元で一番の公立高校に進学し、中高を通じて塾などは一切利用せずに某国立大学に進学します。大学1年生の頃は「あんなにお金が無い家からここまで成り上がった、すごいだろ」というようなことを考えていたように思います。その一方で、まだどこか満たされない気持ちも抱いていて、「過去の自分が救われてない・報われていない」「自分がまだ幸せになっていないのに他人の幸せのことを考えられない」というような感覚を持っていました。

この時の満たされない感覚というのは、自分の受験生時代の人生をやんわりと否定・黙殺されたという感覚からではないかと今では考えています。

大学に入るとそこには「大学生にもなって受験の話をするのはダサい」とか「結局大学入った後はみんな同じだよねー」といった空気があり、大学でできた友人と受験の苦労話や自慢話をし合うような機会はほとんどありませんでした。それが意味するのは、私は経済的に恵まれていなかったというディスアドバンテージを乗り越えて受験に合格したにも関わらず、自分の受験時代の頑張りを他人に承認される経験をしなかったということです。

このような誇大な自尊心を満たすために「指定校ヘイト」をネットに書き込むような人間になってはいけません。しかし、小中高時代の身近な大人は「勉強が一番大事だよ」と言っていたのに、大学入学後の周りの友人や就活の空気は明らかに「勉強だけやっていても意味ないよ」と言ってくる、これはやはり変でしょう。社会全体が仕掛け人のドッキリじゃないと説明がつかないくらいの手のひら返しです。

さあ、私と同じように大学合格に誇り(執着)を持つ者たちよ、一緒に怒ろうではありませんか。素直に大人の言うことを聞き、実直に受験勉強に取り組んだ私たちが馬鹿を見るなんてことがあっていいはずがありません。

さて、ここで重要になってくるのは、その怒りをどこにぶつけるか・・・・・・・・・・・・・ということです。私は、そこを間違えた途端に「本当のダサいやつ」になってしまうという気がしてならないのです。

では、そろそろ本論に入っていきましょう。

自己責任論の融解

「橋下徹 女子高生 論破」というキーワードに心当たりのある読者はどのくらいいるでしょうか。これらの単語で検索をかけると、2008年に府の財政再建策として私立学校への助成を削減した橋下徹氏(当時大阪府知事)とそれに反対する高校生の討論についての記事や動画がヒットします。

この出来事に対するネット上での評価は、私見によれば「社会の厳しさを知らない高校生を橋下徹が完全論破したww」というような意見が優勢でした。YouTubeのコメント欄でも高校生に対する批判が大半であるように見受けられます。

高校生との討論の中で橋本氏は、母親を苦しめたくないから助成金削減はやめてほしいという母子家庭出身の私立の男子生徒に対して「なぜ公立を選ばなかったのだろう?」と反論し、無駄な道路整備などでなく教育に税金を回すべきだという女子生徒に対しては「じゃああなたが政治家になってそういう活動をやってください」と答えます。

最終的に橋本氏からは「皆さんが完全に保護されるのは義務教育まで。」「今の日本は自己責任が原則ですよ。誰も救ってくれない。」といった正論も飛び出しました。(YouTubeに上がっているものはTVの無断転載なのでいつ見れなくなるかわかりませんが、)詳しくは実際の動画を見てみてほしいと思います。

私も初めは橋本氏の発言に共感するところがありました。それは私がそれほど裕福でない家から「一番お金がかからない形(公立校・塾なし・現役)」で大学に進学したという経験が大きく影響しているように思います。簡単に言えば、橋本氏と討論した高校生が「勉強できないからお金が欲しい」と言っているように見え、「自分は勉強できるけどお金が欲しいなんて言ったことないぞ」という気持ちになり、高校生が非常にわがままな存在に思えたということです。

しかし、私の気持ちも次第に変化していきます。私は、橋本氏の一連の発言が「正しいかもしれないけど優しくない」と思うようになりました。さらに、「自己責任と相手を切り捨てたところで何も意味がない」と考えるようになりました。

「勉強ができないのは自己責任だ」と大人が叱れば高校生は勉強をするようになるのでしょうか。自己責任を強調することは「不幸な人は不幸なままいればいい」と言っているように聞こえてきます。

自己責任が原則の社会が今の日本の真実だとして、それが理想状態とは限らないのに現状維持を志向するのはなぜでしょうか。私たちが目指しているのは、傷ついている人を見捨てることによって成り立つ社会ではないはずです。

先ほど私は「世の中に対する怒りや不満をどこにぶつけるか」という話をしましたが、現時点では「少なくとも弱者を攻撃するためではない」と結論付けたいと思います。

特権性というみそぎ

そして私は「特権性」という概念に興味を持つようになりました。

文化心理学者の出口真紀子は、特権性を「マジョリティ性を多く持つ社会集団にいることで、労なくして得ることのできる優位性」と定義しています。出口は"労なくして"の部分を強調したうえで、特権性を「自動ドア」の比喩によって以下のように説明しています。

わかりやすくたとえるなら、“自動ドア”。自分が特権を有する側に属していれば、前に向かって進みたいときドアが勝手に開いてくれるし、ドアの存在そのものに気づかないことすらある。

ところが、特権を持たない人には同じドアが自動で開かない。他の人が横でスムーズにドアを通り抜けていくさまを見ながら、「これを自分の手でこじ開けていかないといけないんだ……」と思い知らされてしまう。

ここで“自動ドア”の恩恵を受けやすいのが、いわゆる「マジョリティ」だ。

「差別や人権の問題を『個人の心の持ち方』に負わせすぎなのかもしれない。『マジョリティの特権を可視化する』イベントレポート」こここ
URL:https://co-coco.jp/series/study/makiko_deguchi/ 2024年2月13日取得

私自身のマジョリティ/マイノリティ性で言えば、社会的階級が低所得であるという項目以外はすべてマジョリティ側の属性を有しているということになります(下図)。もっと言うと、我が家は低所得と言いつつ両親とも4年制大学を卒業していて、私は低所得世帯の中でも大学進学を目指しやすい環境にありました。私は特権性という考え方に出会って以降、次第に自分は比較的恵まれた立場にあったのだという自覚が芽生えていきました。

差別の問題に絡みやすい7つのアイデンティティ(出典:同上)

私自身が多くのマジョリティ性を有することに気づいたこと、そしてそのことに大学2,3年になるまで気づけなかったこと。これらを背景に私は社会的排除を行うマジョリティ(強者)の側に興味を持つようになりました。

マジョリティは自分が特権性を有していることには気づきにくく、それにゆえにマイノリティの生きづらさに無頓着になってしまいます。だからこそ、マジョリティは自分の特権性を自覚することが重要なのでしょう。

しかし私は、「マジョリティは特権性を自覚するべき!!」とは言いたくないのです。なぜなら、このようなことを聞かされたマジョリティの人は自分が悪人だと糾弾されているように感じ、心理的抵抗感や罪悪感を覚えてしまうからです。(私もそのような場面に遭遇したらきっと抵抗感を覚えると思います。)

このような私の考えに対して「マジョリティは特権性に無自覚であることによって普段から構造的な差別に加担しているのだから、それを自覚する時の心理的負担は負ってしかるべき」という意見があるかもしれません。しかし私は、マジョリティが抱える特権性に対する「気づきにくさ」は、自分の意志とは無関係に発生しているという点で、マイノリティが抱える日常生活を送る上での「生きづらさ」と全く同じ状況にあると考えます。であるならば、特権性に無自覚であることはマジョリティ本人とは別のところに責任があると言えるのではないでしょうか。(このことは『恵まれていることは罪なのか』でも少し述べました。)

以上のことから、私は「今の日本の社会制度や教育制度は、マジョリティが自分の特権性に気づく機会が少なくなっているのではないか」という問題意識を抱くようになりました。

特権性に気づく機会が少なくなっていると考える例としては、一つに日本の特別支援教育が挙げられます。日本の学校制度は、障害児と健常児が基本的に別の教室で学ぶ「分離教育」という形を取っています。しかし、障害児と健常児が共に学ぶ「インクルーシブ教育」を実現すれば、マジョリティである健常者が障害者(マイノリティ)のことをより理解できるようになるかもしれません。

つまり、この時の私の関心は「社会的排除を行うマジョリティ個人」というよりも「社会的排除を行うマジョリティを生み出す社会構造」にあったのでした。

不可視化された問題という問題

特権性に興味を持つようになった後もなる前も、私は色々な場面で「不可視化」という現象が起きていると感じてきました。

マジョリティ/マイノリティの話で言えば、差別とは「マイノリティの日常生活での生きづらさが不可視化されている状態」が大きく関係しており、特権性に気づく機会が少ないという私の問題意識は「マジョリティの特権性に対する気づきにくさが不可視化されている状態」が基となっていると言えます。

また、前回のnoteで言及した、「分断」「排除」についてもそれぞれのケースで「不可視化」現象が起きていると考えられます。

トランプ氏が立候補した時のアメリカ大統領選にみられる政治的な「分断」については、デモや暴動に繰り出すほどの積極性を持っている右派/左派の人間がメディアで取り上げられますが、明確な政治的立場を持たない無党派や浮動層は私たちの目にはあまり入って来ません。

また、人々が弱者を排除するという状態は「社会が弱者を見えなくしようとしている」と表現することもできるでしょう。(これは前回のnoteで紹介したひろゆき氏の発言からの引用です。)

このように私の中で「不可視化」という用語は様々な場面で使われており、その定義は定まっていません。上記の政治的分断における無党派の不可視化は単に「知らないこと」を言い換えているだけかもしれません。

しかし、社会的排除における「不可視化」状態は、非常に深刻な問題として捉えるべきだと考えます。

例えば、近年社会的に注目を集めるようになったヤングケアラーの問題です。ヤングケアラーの子どもは、ヤングケアラーであることを理由に差別やいじめを受けて困っているというよりも(もちろんそのようなケースもあるでしょう)、家で家族のケアや家事を担うことが本人にとって当たり前の日常になっていることで自らの苦境を自覚しておらず、原理的に子ども本人が支援を求められないという状況にこの問題の困難さがあるのではないでしょうか。

つまり、ヤングケアラーの問題の核となる部分はヤングケアラーの子どもの困難さが不可視化されている状態にあるということです。このことから、「不可視化」という概念は、直接的な差別すら起きていない状態・・・・・・・・・・・・・・・・の深刻さを指摘するのに非常に有用な概念であろうと考えています。

また、私の考える「不可視化」概念と近い概念を紹介したいと思います。『いじめの政治学』を書いた精神科医の中井久夫によれば、いじめとは「①孤立化→②無力化→③透明化」の三段階のプロセスで進行すると言います。ここで私が注目しているのは「透明化」がいじめの最終段階に置かれているということで、この「透明化」は「不可視化」概念と非常に重なるところが大きいと思っています。

①の孤立化は、いじめられっ子と一緒にいたら自分もいじめられるかも、とみんなを不安にさせることから始まり、ささいなクセやからだの特徴などをあげつらい、「(彼、彼女は)いじめられても仕方がない」と先生も含めた周りの人々に思わせること。

②の無力化は、いじめられっ子を暴力によって萎縮させたり、大人に頼ることは恥ずかしいこと、という考えを植え付けたりして、反乱の芽を摘むこと。

③の透明化は、いじめが周りの人にとってもいじられっ子にとっても日常となってしまい、繁華街のホームレスのように、見えているのに、見えなくなってしまうこと

「『いじめは誰のせい?』元いじめられっ子の精神科医が出した結論」SENSEIノート
https://senseinote.com/articles/64  

簡単に振り返り

今回は自分史に始まり、自己責任論、特権性、不可視化について紹介しました。このnoteを執筆する際、筆者である私がどのような人間として見えるかを非常に意識しました。いえ、意識したというより、意識せざるを得なかったという方が正確かもしれません。

自分史に書かれていることはすべて私のプライベートな部分ですから、ネット上に公開することは今でも少しはばかられます。特に、大学合格に執着していた頃の「ダサい」自分を書くのは非常に難儀しました。しかし、当時の「ダサい」自分と向き合うことはこれから大人になっていく上で大切なステップだと今では前向きに考えています。

ここまで読んでくださりありがとうございました。今回のnoteはこれでおしまいです。

ぜひ次回作にもご期待ください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?