努力教が危険なわけ

黒子のバスケ脅迫事件はまだ記憶に新しい人も多いだろう。
被告人の最終意見陳述は、社会に大きな影響を与えた。

私も、被告人の行動は許されないと考えつつも、その考え方には共感させられた。

努力教の何が危険なのか。
私なりに考えてみた。
少し例を見てみたい。

例えば、私と同世代の大谷翔平。
大谷翔平はなぜあそこまで活躍できるのか。

努力教の考え方に照らせば、「大谷翔平は他の誰よりも努力したから」という結論になるのだろう。
私(これまで一度も逆上がりができたことがないレベルの運動神経)も努力すれば大谷になれたということだ。私は単純に努力をしなかっただけ。

他に例を出す。容姿や体型について。
アイドルでもいいしモデルでもいいし、身近にいる、周りから「かわいい」「かっこいい」と注目される人でもいいだろう。
彼ら彼女らの現在地も、努力教の考えに照らせば、努力した結果である。容姿が優れていない人は、単純に努力していないから優れていないのである。
もちろん、どんなに容姿が優れている人でも、やはりそれを維持するために努力はしているはずだし、魅せるための努力はしているだろう。色々なものに挑戦し、失敗を繰り返し、その末に今の地位にいるのかもしれない。ただ、それは、皆が皆、同じ努力をすればその容姿や地位が手に入るのだろうか。

上記の2つの例を見れば、恐らく皆、そんなことはないと考えるだろう。
持って生まれた天性のもの(運動能力や容姿)があって、その部分で努力をするから、結果が出ているのだろう。

むしろ、それらの人をすべて努力の人とするのは、逆にその人達に失礼ではないかとすら思う。持って生まれた天性の才能、これをすべて否定するということになるのだから。

もちろん極端な例かもしれない。
ただ、これがなぜか日常ではそう思えない人が多い。

例えば人間関係が苦手な人。
人間関係が苦手なのは、人と接する機会が少なかったからとか、コツを知らないからとか、気を遣えないからだとか、そんなことを言い出す人が世の中にわんさかいる。

一つ聞きたい。人間関係が得意な人は、努力した結果、そうなったのだろうか。
元々生まれつき得意な性質を持っていたのではないか。
人間関係が苦手な人が、得意な人と同じようなことをやれば、追い付けるのだろうか。
私は子供の頃から人間関係がうまく築けなかった。もちろん今もだ。ただ、私なりに努力はした。大学時代は色々なものに参加した。それでも、結局はできなかった。高校時代までと何も変わらなかった。

スポーツ選手や容姿のような例を出せば、多くの人は努力教の考え方はおかしいと考える。
ただ、それが人間関係、勉強、仕事、恋愛など身近なものになるとそう考えなくなる人が多い。

私なりに考えてみたが、理由は簡単で、それらのできる人の多さなのだと思う。
人間関係がうまくできる人は沢山いる、むしろできる人の方が多いくらいだから、できていないのは単純に努力不足なんだ、と考えるわけだ。

ただ、どう考えたって違う。人間関係をうまくできない人が、できるようになるということは、極端に言えば一般人が大谷翔平になるくらいの難易度のことだってあり得る。

人間とは、単細胞生物ではないことは知っているだろう。
ただ、努力教の考え方に照らせば、究極的には人間は単細胞生物になってしまう。人間は皆持っているものは同じで、後天的な要素のみで出来上がっていくということになる。

また、努力教の恐ろしいところは、成功した側がこのカルト宗教に入ってしまうことだ。
結局、自分は努力したから成功した。他の人よりも努力したからだと。
もちろん努力したのは間違いないだろう。そこは認めざるを得ない。
ただそれは、前述の大谷や容姿の話と同じだ。天性の才能があるところで努力しただけ。

成功した側は、自分がどこまで恵まれていたのかが分からないのである。それがスタンダード、それ以外知らないのだから。

世の中、成功した人の方が声は大きくなる。脚光を浴びることが増えるからだ。対して、失敗した人は特に何のケアもされないので、誰にも失敗した人の言葉は受け入れてもらえない。失敗した人にインタビューする人はいない、と言われれば分かるだろう。

また、自分は昔はこんなにダメで、こんなに努力してこうなりました!みたいな美談はよくある。
それは違う。あなたは元々その才能があった。その才能を活かせていなかっただけ。皆があなたと同じ努力をすれば成功できるわけじゃない。

運動だって勉強だって容姿だって、結局のところ、優れた人は努力していることは間違いないのである。
ただ、持って生まれたものがあって、環境に恵まれて、その上で努力したから結果が出ている。
よく言われるが、才能がなければその努力は意味をなさない。
皆が皆、成功した人と同じ量の努力をすれば同じ功績が手に入ったのか。そんなはずはない。

逆に、他の人にはない才能を持って生まれたということを否定してしまっては、その人に失礼である。

また、努力教を突き詰めてしまうと、究極的には「人間はすべて同じ。個性なんてない」という恐ろしい考え方にも繋がりかねない。
また、成功した人は失敗した人を貶めていいことにも繋がる。この宗教の元では、人権もなくなりかねない。

上記の点から、努力教は危険なのである。

大切なことは、才能の存在を認め、それを持っている人を素直にリスペクトする。
そういった精神ではないか。

結局、努力教の元では、相手を素直にリスペクトすることができず、自分にも努力すればそれができる余地があると考えるから苦しむ。

もちろん、単純に他人をリスペクトすることは容易ではない。
皆、自分が大好きだ。誰にも負けたくない。
自分だって努力すればああなったもん、と言いたくなる。

まずは素直に相手を認め、その上で、自分の身の丈に合ったことをしっかりとこなしていく。

私もまだまだできていないことだが、心がけていきたい。

世の中、諦めていい、妥協していい。
恐らく、これができない、あれは苦手だと思っていることがある人は、もうそれについては十分なほど努力したのではないか。そうでないとそんな考えは出てこない。
努力したうえで諦めるのであれば、それは逃げではない。
努力してないけど、しっかりと自分の能力を見極めて諦めるのも、別に逃げではない。
下記の投稿の通りだ。

自分を苦しめないように、生きていかなければならない。

そのためにも、努力教は排除していかなければならない。

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