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下町音楽夜話 Updated 016「すべての若き野郎ども」

やはりストレスのせいなのだろうか、血圧や脈拍が異常な数値を示している。ウエスト周りが膨らまないように心掛けていろいろやっているし、自宅と店の往復も11km程度の距離のうち3~7km程度は歩いている。ウォーキングにはいい季節なのだが、鬱陶しいマスクが何とも恨めしい。

さて精神的に不安定とまではいかないが、コロナ禍が長引くとそういう人間も増えてくるだろう。コンビニの店員に八つ当たりしている爺さんなどを見かけると、何とも悲しい気分になってしまう。自分には精神安定剤的に作用する音楽があって、本当によかったなとも思う日々なのである。また、そんなときに思い出す曲もあるなと、今日はこんな古い文章を引っ張り出してきてみた。

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モット・ザ・フープルと、そのリーダーだったイアン・ハンターのソロ作が紙ジャケットで再発になった。アナログLPでは全て揃えてあるが、初期のモット・ザ・フープルのアルバムはあまり面白いものがあるわけでもなく、思い入れのある6枚だけを購入した。それにつけても、「すべての若き野郎ども」の文字を見るとつい手が出てしまう。ソロのほうも、3作目あたりまでは1970年代のグラム・ロックに接近していた頃の熱気が満ちており、魅力的なものなのである。

ただのロックン・ロールと言ってしまえばそれまでだが、この辺のモット・ザ・フープルやイアン・ハンターの曲を聴くと、何故か目頭が熱くなるのだ。「すべての若き野郎ども」の作者であるデヴィッド・ボウイのコンサートでこの曲が演奏されたときにも、大合唱しながら目を潤ませている男たちがいるのだ。何がそうさせるのか、よくよく考えたことがあるわけではないが、毎度毎度そうなのだからやはり何かあるのだろう。また、デヴィッド・ボウイは、この曲をモット・ザ・フープルに提供してしまったことを後から悔やんだというが、本人はシングル・カットもしていないのに、いまだにコンサートの中でも重要な位置づけの曲として演奏し続けているのだから、よほど思い入れがあるのだろう。

そもそもが、「ボブ・ディランのバックでローリング・ストーンズが演奏しているようなバンド」というあたりを目指していたというのだから、よくぞ具現化したものだと思う。むしろ、イアン・ハンターのトーキング・スタイルのヴォーカルは、ボブ・ディランよりも魅力的かも知れない。最近のCDにボーナス・トラックとして収録された、「すべての若き野郎ども」のデヴィッド・ボウイによるガイド・ヴォーカル・ヴァージョンを聴くと、最終的なテイクとしてアルバムに収録されたイアン・ハンターによるヴォーカルが、如何に魅力的であったかを再認識させられる。決してデヴィッド・ボウイが下手なわけでもないし、曲の肝を理解していないわけでもない。しかし、明らかにイアン・ハンターの方に軍配があがるそのヴォーカル・スタイルこそ、イアン・ハンターの個性であり、魅力であり、レゾン・デートルであるのだ。

グラム・ロックの雄としてすでにメジャーになっていたデヴィッド・ボウイは、ライブバンドとして素晴らしいものをもっているモット・ザ・フープルの魅力を早くから見抜いていた。しかし、一向にヒットせず、また素晴らしいライブを繰り広げているわりに魅力的なアルバムが作れないでいるバンドが、一旦解散を決意したときに、曲提供とプロデュースを買って出るまでして、このバンドの再起を願ったのだ。

当初はシングル用として、ボウイは自身の名曲「サフラジェット・シティ」を提供すると申し出たのだが、バンド側は納得せず、「ドライヴ・イン・サタデイ」の提供を望んだという。しかしこちらはボウイの意に染まらず、結果的に「すべての若き野郎ども」が提供されたというエピソードがまた面白い。どう考えても、この3曲では「すべての若き野郎ども」がもっともよいと思うのは自分だけではあるまい。

当時のグラムな若者たちは、視覚的なアピールに関しては、他のどの時代の連中にも勝っていた。とにかく目立つこと、キラキラの衣装にド派手なメイク、コケるぞと心配したくなるようなヒールの高いロンドン・ブーツ、曲は今で言うパワー・ポップ的なものが多いが、百花繚乱、何でもありの大ロックン・ロール・パーティ状態だった。その中で、ヴィジュアルな面でも強烈な個性を持った、両性具有的なデヴィッド・ボウイの存在は、時代の象徴そのものだったのだ。

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騒乱の1960年代末期を過ぎて、時代が変わって行くことを誰もが肌に感じながら生きていた。泥沼化するヴェトナム戦争や不安定要因だらけの経済状況に対する苛立ちや諦観、社会的政治的フラストレーションが根底にある歌詞や言動は、ヴィジュアルとは裏腹の知性をもちらつかせ、そのアンバランスな魅力はバロック真珠のように輝いていた。そして、そんな時代だった1970年代前半から中盤にかけて、モット・ザ・フープルの存在は、後のパンク・ムーヴメントにも繋がっていく伏流水のようなものだったのだ。

一方でジャケット・アートの存在感は圧倒的で、この時期のアルバム・デザインはいずれも時代を代表するポップ・アートの宝庫である。モット・ザ・フープルの「ロックン・ロール黄金時代」、ソロでの「イアン・ハンター」「オーヴァー・ナイト・エンジェルス」の3枚は格別に好きなものだ。デザインを担当しているのは、後にジューダス・プリーストのアルバムも手がけるROSLAV SZAYBOという人物だが、クスリの匂いがプンプンしそうな、とても正気では描けそうにないようなジャケット・アートの数々は、特定の作者の手によるものではない。しかし、なんとも言えず、統一感がある。出口の見えない混沌とした社会状況に加え、一部に狂気を孕んだような時代感覚があまりにもマッチしており、個人的には1970年代を代表するジャケット・アートであると信じている。

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オリジナル・メンバーだったギタリストのミック・ラルフスが脱退し、代役を務めたのは、エリアル・ベンダーと名乗ったスプーキー・トゥースのルーサー・グロヴナーだった。あまり個性的でない彼は、このバンドには向かなかったようで、すぐに穴を埋めることになったのが、その後長年にわたりイアン・ハンターと行動を共にするミック・ロンソンだ。デヴィッド・ボウイのバックバンドでもあったスパイダー・フロム・マースのギタリストだった彼の起用はズバリ的中したが、バンド内の人間関係は崩壊した。そのため、イアン・ハンターは精神的に患ってしまい、解散に至ってしまう。

結局2度とモット・ザ・フープルは復活することなく、このバンドの遺志は、イアン・ハンターのソロ活動として、紆余曲折を経ながら続けられていくことになる。精神的に不安定だったこともあるのか、玉石混交といった印象が拭えない彼の諸作は、結果的に彼の音楽性の評価を落とすことにもなってしまったようだが、やはりモット・ザ・フープル後期の緊張感に満ちたものや、イアン・ハンターのソロ・アルバムの初期の数枚は、他には代え難い魅力を持って、いまだに輝き続けている。

惜しくも亡くなってしまったミック・ロンソンの追悼コンサートで演奏された「すべての若き野郎ども」は、ただでさえ、目頭が熱くなるのに、涙なしには聴けないものとなっている。何故目頭が熱くなるかは、釈然とした理由が分からないままなのだが、分からない方がよいような気もしている。いずれにせよ、自分の場合、この曲は一生聴き続けていくだろう。そのことだけは確信を持っている。

(本稿は下町音楽夜話213「すべての若き野郎ども(2006.07.22.)」に加筆修正したものです)

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