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下町音楽夜話 Updated 011「マイ・フェイヴァリット・シングス」

散歩するにしてもマスク必携の息が詰まるような日々、防犯の意味も兼ねて店で大人しく作業をしているが、以前のゴールデンウィークは都バスの一日乗車券でうろついたりするのを楽しみとしていた。つき合わされるカミサンが気の毒という気もしていたが、何度か同行するうちに自分なりの楽しさも見出したようで、「いつ行く?」などと嬉しいことを言ってくれる。それでも「今年は我慢するか」という話もしており、何だか悲しい気分でPCの整理をしていた。そんな中でこんな文章を見つけてしまい、アップデートの必要もない17年前の内容に苦笑いしている。

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ゴールデンウィークの前半は自分の好きなことに時間が使えた。そんな中、中古盤の専門店でジョン・コルトレーンの「コルトレーン・イン・ジャパン」を見つけた。非常に状態のいい代物で、大変喜んでいる。しかも国内盤なので、一曲多い。多いといっても50分を超える一曲なので、全く別物なのである。LPの2面にわたり、収録されている「マイ・フェイヴァリット・シングス」があるとないとでは、全く違う盤ではないか。自分はこの曲を聴くために買ったのだから、尚更その感が強い。とはいえ、聴いてみて案の定と納得はするが、大好きなテーマ部分はほんの少々出てくるに過ぎないのだ。しかもはじめに10分以上にわたるベース・ソロが収録されており、これが、「マイ・フェイヴァリット・シングス」への「イントロデューシング」となっているのだから、俯いてしまう。

コルトレーンは、マイルス・デイヴィスのグループに在籍していたころの演奏が好きだ。独立後はフリー・ジャズへ走り、最後は神がかりと言われるまでになってしまい、もう自分の理解の域を超えている。フリー・ジャズにも好きなものは多いが、あまりに延々とメロディアスとは言えない演奏を続けられると、さすがに辛い。霧の中から突然姿を現す美しい動物でも見たかのような美しいテーマに出会ったときは、フリー・ジャズもこれでいいのだと思えるが、霧の中で迷子になって放置されっ放しのような曲も確かにあるのである。

自分は1950年代から60年代前半の、ハード・バップと呼ばれる少人数で演奏されるジャズが非常に好きで、ビッグバンドやストリングス入りのものはあまり好まない。あくまで、個々の演奏が聴きたいのであって、音数が多過ぎるものや楽器の音が分離できないものはそれだけで遠慮したくなってしまう。美しいテーマを持った曲を流麗に演奏するものはそれだけでも価値はあるが、結局BGMになってしまう。その点、指の動きまで見えてきそうな、スモール・コンボの火花を散らすような掛け合いを聴くということは、全く意味合いが違うのである。マイルス・デイヴィスは時代の変化を常に取り入れ、変化し続けた男だが、その過程でハード・バップの代表ともいえる超有名盤を何枚も残している。それらこそ、自分にとっては一音たりとも聴き漏らせないお宝なのである。

コルトレーンがフリーに走った時代には、CDフォーマットの話はまだない。もっと長く収録できる媒体が出てくると考えて、長尺の演奏をしていたわけではないのだろう。必然的に長くなったと思いたいのだが、その必然性を見出すことが実に難しい。今となっては一曲が70分を超えていても、収録が可能であるし、大容量メディアを使えば、もう無限大に長尺の演奏を録音し、世に問うことが可能である。この点に関してだけは、さすがにデジタルに分がある。アナログの限界は音質ではなく、こういったところに強く感ずるものである。20分もしないで、ひっくり返しに立って行かなければならないということの面倒さは、昔はそれが当然だったのでさほど感じなかったが、昨今のデジタル・デバイスの利便性を知った身としては、堪らなく面倒である。

しかし視点を変えてみると、人間の集中力もさほど長く持続できるものではないので、これでいいのではないかとも思っている。「コルトレーン・イン・ジャパン」をCDで聴いたなら、あの長尺「マイ・フェイヴァリット・シングス」を一気に聴けるわけであるから、嬉しいとも思う一方で、そんなに集中できるものか?と疑ってかかったりしている。アナログをやはり否定できない贔屓目で聴くから仕方がない。コルトレーンの来日音源は、CDでは「ライブ・イン・ジャパン」というタイトルで、他の日にちの演奏と合体して4枚組で発売されていた。思わず嬉しくなってしまうボリュームなのだが、さすがに通して聴けるとも思えず、買わないでいた。セオリー通り、LPの時代の音源はLPで聴きたいので、一応自分としては理に適っているのである。

「コルトレーン・イン・ジャパン」を購入した日、ほかにも数枚のアナログ盤を入手した。ネクターというドイツで活動していたイギリスのプログレッシヴ・ロック・バンドのライブ盤は日本発売されていないもので、非常に入手困難なものであった。これを安価で手に入れたのは嬉しかった。また100円均一ボックスから嬉しい2枚を探り出した。一枚はアレサ・フランクリンの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズがプロデュースしており、以前から探していたものだ。あらためてジャケットを見て、デザインのひどさには絶句したが中身はなかなかよい。

そしてもう一枚がスティングの「アフター・ザ・レイン・ハズ・フォーリン」、こちらはイタリア盤だったが、恐ろしく音がよい。2000年のアナログ盤は、さすがに尋常ではないレベルまで達している。12インチシングルはカッティングに余裕があるためレベルが高く、音質はLP以上によいものが多い。中にはレアな音源もあるので、自分としては要チェックなのである。スティングの盤はオーディオ・レファレンス用にも使えそうな代物である。いずれも、値札の10倍以上は価値があると思っている。

その日は下町の散歩に飽きて、つれあいと都営交通の一日乗車券を購入し、新宿-高円寺-阿佐ヶ谷方面をうろついてきたのである。自分は、ちょっとした小旅行気分が味わえる、こういった散歩が堪らなく好きなのである。やたらとアジアン・エスニックな雑貨屋さんの多い商店街は、案外と下町の風情があり、ちょっと驚かされた。しかしそこはさすがに中央線沿線、江東区界隈では見かけないような奇抜な服装の若者も多く歩いていた。

たまにこういった背伸びをしたような街を訪れてみると、やはり地に足がついた生活くさい下町のよさを再認識させられる。帰ってきたときの安堵感は自分でも笑ってしまうほどだ。たまに外から見てみないと、またそのよさが見えなくなることも、解かっていながら忘れていることでもある。視点を変えて見るのはやはり面白いし、重要なことでもある。自分の大好きなこと(マイ・フェイヴァリット・シングス)ばかりをしてきた、とある一日の報告である。

(本稿は下町音楽夜話098「マイ・フェイヴァリット・シングス(2004.05.08.)」に加筆修正したものです)

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