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The Golden City -January-

 1月はマックスの好きな月だった。時計が午後9時を打つ今、薄暗い部屋の片隅で彼は窓の外の雪を眺めていた。
 エアコンは動いていたが、彼の好みでそこまで部屋を暖めることはなかった。部屋の明かりは、彼がつい先ほどその殆どを消した。その方が、外をよく眺められると彼は考えていたためである。薄ら暗い部屋、オレンジ色の灯りが一つ、仄かな光をサラサラとダイニングテーブルの上に落としていた。
 彼はかれこれ、30分も外を眺めていた。空は表情のない雲が辺りを覆っている。最初こそチラチラと舞っていた雪も、今ではパイに振りかける白砂糖を彷彿とさせるまでに勢いを増していた。遠くの風景は白雪にフェイド・アウトし、ほの暗い摩天楼の灯りが薄らと見えるだけである。
 彼は腕を組み替え、ふと遥か下の通りに目をやった。普段からそこまで人の動きが活発でないこの町では、雪の日はさらに人通りが薄くなる。車道を駆動していく車と、傘をさしながら歩く人間とが時折見掛けられる程度である。
 街灯に照らされる傘は、どれもが鮮やかだった。熱のない赤、冷たくない青、静かでない黄色、いずれも雪を被って白っぽくなっていたが、その個性が損なわれることはなかった。人々の歩みによってわずかに上下するそれは、閑散とする通りの華であった。
 彼の背後、ダイニングテーブルの上にあった携帯が震えた。青白く光った画面には、一件のメールに関する通知が現れていた。最初こそ気にも留めていなかった彼であったが、ふと思い出したように後ろを振り返り、そうして初めて気が付いたかのように、雪のような静かな足取りでテーブルへ向かって行った。
 仕事はしたのだから、と眠りに落ちていた携帯を彼は手に取り、電源を入れた。が、彼はメールの送り主を一瞥しただけで、そのまま携帯をテーブルに伏せて置いてしまった。そうして、春はまだ遠いと冬が草木に伝えるような溜息を彼は吐いた。
 コツ、コツ。音の沈んだこの部屋で、定期的に跳ねるものは秒針の足音だけであった。コツ、コツ。稀に強まる北風が、ガラス戸を手のひらで叩いていった。それまで立ち止まったままだった彼が足を進めた、その足の裏が床を擦っていく音。彼の生きる証左、その吐息の音が部屋を滑っていく。壁に寄りかかった彼は、壁越しに隣室のテレビの音声を耳にした。「し」や、「す」などの鋭い音だけが部屋を突き抜けて来ている。彼は目を閉じ、4分33秒に耳を傾けた。
 しばらくの後、彼は壁を離れて再び部屋を歩き始めた。特に目的もなくリビングを蛇行し、その道中、一台のピアノの前で立ち止まった。薄く埃の這っている蓋を開け、ふとその鍵盤を押す。寂しい音が、先程の彼のように部屋を歩いて回った。何秒間もの反響、彼はその音の途絶えるまで鍵盤を押す自身の指を見つめて動かなかった。音がリビングを出ていき、玄関へと続く廊下を進んでいく。随分と細くなってしまった音が玄関扉のノブを掴んだとき、彼は怯えたように振り返った。かすかな静寂が部屋を満たしたが、しかし…。
 その後、彼はピアノの蓋をそっと下ろした。またも溜息を吐いた彼は、その溜息が地に落ちるまで俯いたままだった。しばらくして彼は人差し指で蓋をなぞり、薄く張った埃を指先に絡めていった。続いて彼はその埃を親指で擦り落としながら、ピアノの上に置かれた写真立に視線を飛ばした。オレンジの灯りを反射する写真は、仄かに明るく見える。
 彼はキッチンに向かった。そこだけ灯りをつけて、さっさとコーヒーを淹れる器材を準備していった。コーヒー豆を粉にするミルを置き、続いてフィルター、ドリッパー、そしてポットを並べてゆき、そして間髪入れずにコーヒー豆をミルの中に投げ入れていった。ミルの中を豆で満たすと、今度はドリッパーを手に取ってポットの上に重ね、そしてフィルターを被せた。ここでようやく彼は一息つき、両手をカウンターに載せて俯いた。その後しばらくして、彼はミルに手を伸ばしてコーヒー豆を砕き始めた。豆が砕かれていく、硬く柔らかい音が部屋を歩き始めた。彼はキッチンから窓の外を眺めていたが、キッチンの灯りのためにあまりよく見えなかった。摩天楼の影さえ現れなかったが、窓に反射する灯りのほかに、街の星がポツポツ瞬いていた。
 5分ほどミルの取っ手を回し続け、ようやく彼は全ての豆を挽き終えた。ミルをカウンターに置くと、彼はポットを取り出して水で満たし、加熱を始めた。水が沸々と勢いを増す間、彼はマグカップを二つリビングテーブルに持って行き、それらを置くとキッチンに戻ってき、そして砂糖やミルクを持って再びテーブルへ戻っていった。
 水が沸騰するのを待つ間、彼はまたもキッチンから窓の外を眺めていた。雪によりチラチラと点滅する街の星明かりは、その金色を強く示している。水の沸騰する柔らかい音が部屋を跳ねて回っている。彼はその音に耳を傾けてもいた。彼は目を閉じた。水の沸く音のほかに、換気扇の音、冷蔵庫の音、その他様々な音が多方からやってくることに彼は気づいた。静寂など無いことを、彼は静寂から学んだ。
 彼は砕かれたコーヒー豆をフィルターに入れると、ポットを取り上げ、そしてコンロの電源を落とした。それまで微弱に香っていたコーヒーの良い香りが、部屋を漂い始める。彼はその匂いを楽しみながら、ポットの湯を注いだ。ドリッパーの中が水に満たされ、膨張し、収縮し、やがてカルデラが形成された。彼はその状態で少し待つと、再び湯をカルデラの中に注ぎ込み、湯が窪みから溢れそうになると注ぐのをやめた。
 彼はポットの蓋を閉じ、フィルターはゴミ箱に捨て、その他の器材を全てシンクに置いた。その後、彼はポットを持ってデーブルへ向かった。
 彼は年季の入ったカップに、トポトポとコーヒーを注いだ。その香りが湯気とともに彼の頬を撫でていく。カップの八分目ほどまでコーヒーを注ぐと、彼はもう一つのカップにコーヒーを注ごうとし、すんでのところでその動作をやめた。彼は何かを言おうとした口を閉じると同時に、ポットをテーブルに置いた。そのまま彼は、何もなかったかのように椅子に腰掛けた。
 彼はコーヒーを口に含み、そして飲み込んだ。両手で包み込むように持つカップ、薄白の湯気にぼやけた水面の、そこにゆらめく自身の影に、彼は何かを見た。しばらく彼は深淵を覗いて動かなかった。
 彼はふと立ち上がると、自身の書斎に向かった。ベランダにあるスタンド式の灰皿を見ることなく、彼は机の引き出しからタバコとジッポライターを取り出し、次いでガラス製の灰皿も手に取ってリビングへ戻っていった。
 真っ白な壁紙を背に、彼はタバコを咥え、火をつけた。それまでオレンジが漂っていた部屋に、赤い一点の光が灯る。彼はタバコを一口呑み、そして煙を吐いた。彼は一呼吸おくと、カップを持ち上げてコーヒーを飲み、そして立て続けにタバコを呑んだ。

 この家に帰ってくるのは、彼のみになった。

 1月はマックスの好きな月だった。

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