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やりたいことがわからない人へ

「自分のやりたいことがわからない」と言う人は、自分がこれまでやったことある事を、ぜんぶ書き出してみてください。

それは自分の「やってみたけど今はなんか違うなぁ」と思っていることだったり「なんか違うなぁと思ってるんだけど持っているスキル」なんだと思います。

自分が本当にそれがやりたかったかどうかとか、向いてるかどうかは、まずやってみないとわからないし、長くやっていれば変わるし、自分の興味の移り変わり、置かれた環境でも変わっていきます。単に年齢を経ても変わりますので、そんなに気にすることじゃ無い気がするんです。

でも、その時々には興味をもてていたのだとしたら、そこには何らかの共通項があるはずです。
これは「#」ハッシュタグと似ています。
別々に見える経験でも、自分の中にもっているなんらかのキーワードで、一括りにできる時があります。それが自分探しの本質です。
よく旅や瞑想が自分と向き合うのにいいと言われるのは、自分探し・自己探究する前提としてまず思考のコリを取るための方法として有効だからなんです。

そして、僕がいろんな人の相談にのってきた経験から言えるのは、「自分のやりたいことがわからないから」という理由で何も始められない人は、たぶん今後もずっとそのままだと思います。

これはちょっと厳しめの意見ですが、これに当てはまる人は「やってきたことをとにかく全部書き出して」といっても、あまり書き出しません。

どれだけ「ぜんぶ」と伝えても、自身の中であれもこれも「経験と言えるほどのことではない」と決めつけて無いことにしてしまうからです。

僕は、やってて楽しくないことはやめていいと思ってますが、やめたことや、役に立たなないと感じてることも、それ自体が「必要ない」と判断した経験値でもあります。

必要ない、のと、無い、は違います。

無い、と考えたらゼロです。

ある、と考えたら可能性が生まれます。
どんな小さなことでも、失敗でも、毎日のルーティンでも、三日坊主で終わったことでも、それでも自分の糧になっていると考える人には、それが「材料」としていつでも使える状態になっているんです。

少なくない人たちが、自分で自分の経験を無かったことにして、自分は何をしたいかわからないと嘆いています。
したく無いことをやめるだけでもいいのに、それもわからなくなっています。

褒められたり、点数がよかったり、綺麗だったり、テレビや本や価値が高いとされている物事ばかり「良いこと」と考えてしまい、
「良いこと」でなければ自分の経験として存在してはいけない、と思い込んでしまっています。

経験は良い悪いによって、あったり無かったりするものじゃないです。
自分が通ってきた物事はぜんぶ「ある」し、自分で選んだものでなくても「ある」んです。

例えば禅の「瞑想」というのは、そういった自分の事実を善悪や情念にとらわれずに、「ある」と認めていく作業です。それによってより深く自分のデータを得ることで、いまより鮮明に自分のいく先を考えることができるようになるわけです。

こんな風にいっときの好き嫌い、良し悪しの感覚は、あたまを固くして選択肢を狭めてしまうのであまり振り回されないようにしたいですね。

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畠健太郎 プリズムデザインラボ|フリーの先生
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