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頭で思い描くことから、僕たちの日常は始まっていく。その日常は情報空間から現実空間へ現象をおこすことで、世界の中に生み出されているんだ。

僕らは何かを始めるときに、まず頭で「〜しよう」と思う。そして行動に移すときもあるし、もっと考えてから行動することもある。頭の中という情報空間から、物質の世界に干渉するためには、なにかしらの行動が必要なわけだけれど、僕はそれが「表現」だと考えてる。

書く、描く、しゃべる、音を出す、体を動かすといった行動すべてが表現で、すべての人が表現をして現実の世界を生み出している。それがぼくらの日常なんだ。

頭で思い描いているものは「情報」であって、それは空想、想像、妄想といったもの。自分は認識できるけれど、自分以外の人がそれを覗き見ることはできないようになっている。

そんなわけで、あたまの中の情報は認識はできても形がない。
もしかすると現実世界で形がない魂のようなものかもしれない。

それを、音や絵や文字等に変換して、頭の外側に押し出すことではじめて、現実世界に干渉することができる。情報を物質化させることで、現象として現実世界に動きをあたえることができるんだ。

つまり、あたまの中にあるだけではそれは「認識できるが、存在しない」状態で、表現をしてはじめて「存在する」ことができる。だから、あたまの中にあるだけでは、何もない、とまでは言い難いけれど、それに近い状態ということなんだ。

例えば、ある取り組みが成功しても失敗しても、なにか成果がありさえすれば現実に「存在」している。しかし、あたまの中でどんなにアイデアを組み立てても、それを書き出したりしゃべったり、やってみたりしなければ、誰とも共有できないから、無いも同然になってしまうんだ。

考えるよりも行動しなさい、とよく言われるけど、つまり「物事を現実の空間に存在させなさい」ということにつながる。

だから、なんでもいいから「表現」をしよう。

それに、あたまの中だけで考えていると、先のことばかり考えて心配や不安が生まれてくることがある。理想ばかり思い浮かべて、今体験できることを逃がしてしまうことがある。最善の方法論ばかりにこだわって目的を見失ってしまうことがある。そういったことに気づくためにも、いま目の前の現実空間に表現をしてみるのがいい。

ただ反対に、こんなことも言えるんだ。思い描いたイメージが足りないと、うまく表現に変換ができない。するとそのまま足りない現実が生まれて、齟齬がおきたり、ズレがおきたりしてしまうんだ。だから一方で、徹底的にあたまの中で考えを巡らせて、思考することも必要なんだ。

自分の理想とした物事を、あたかも今自分で体感しているように意識できたり、振る舞えるほどに、あたまの中のイメージがはっきりしていれば、どんな行動をしてもブレることはないだろう。

あたまの中だけで、すでに現実と変わらないような実感があるからだ。

せっかく早く行動しようとして、目の前のものごとにとりくんでいても、それがどこに、なににつながっているのかがわかっていないと、どこにも接点をもたない作業になってしまう。意識を持って動かなければ、効果がないということなんだ。

それは、目的地を入力せずにカーナビを起動して、いつまでもルートがきまらないと嘆いているようなものだろう。

目の前にあることに取り組むことが、思考のブレに気づかせてくれる。
深く思考することが、目の前の取り組みのブレに気づかせてくれる。

だから、やはり思考は大切で、同じく、やはり行動は大切だ。

そもそも、どちらがより大切かということは問題ではないんだ。
僕たちはいつも「どちらが大切か」みたいなことにムキになっているけれど、なぜどちらが大切かを決めて、どちらかに絞らなければいけないのだろう?

どちらか、なんか問題じゃない。
どちらも大切なのが当たり前なんだ。

どんどん考えよう。
どんどん表現しよう。


日常は、この世界は、自分たちの手で生み出していくものなんだ。

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