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与えることは、偶然の循環が始まるスイッチであり、トレードじゃない。

ひとのために何かをする、ということは特別なことではないように思います。

それは「そのひとのためになる」という特別でもなく、自分が「何かをしてあげる」という特別でもなく、ただ自分が自然にやったことが、結果としてだれかのためになるという現象を「ひとためになにかをする」といっているだけのように思います。

ある人が、ごく自然に自分の日常を歩み、自分に必要なこととして何か行動をする。お腹がすいたから何かをたべるように、体が凝ったから運動をするように、自分が自分のために必要と感じて行うこと。それが誰かが必要と感じていたものと偶然に合致することが「だれかのためになる」のです。

だからこそ、「ひとのためになる」ということは、ひとつの奇跡であり、本質的にトレードではないのです。けれどひとは、見返りを求めようとします。自分が自分のために行うことに見返りを求めるのは、ここにないものを期待していることになってしまう。

一本の木を思い浮かべてください。
木は、自分が育つために、根をはり、幹を太くし、枝を伸ばし、葉をつけ、身をつけます。その自分の成長という当たりまえの変化の中で、そこにアリが巣をつくり、鳥が羽をやすめ、セミが鳴き、人が雨をしのぎます。

まさにこの木のようなあり方が「ひとのためになる」の本質です。ただただ偶然にまじわることがある、それだけのことなのです。

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