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人は嘘をつく生きもの。それを認められないから、ずっと嘘をつきつづける。

人は、自分に嘘をつくのです。「正しい」がなにかわからないから、思ったこと、考えたことを嘘にしてしまいがちです。

でも、そういう生きものだからこそ、嘘をついてしまうことを認めてあげることで、「人である」ことを実感できるのではないでしょうか。

いろんな人とお話をしたり、本やブログをみたりしているときに「悟り」という言葉がでてきます。無欲でこだわりを捨てて生きたいと考える方が多いようですが、ひとが本当に悟っていたなら、自分語りなどはしないでしょう。

僕自身、自分の考えたことを認めてもらいたいと思うし、そこに価値があると感じてほしいと思います。アクセス数だって気になるし、自分の活動が多くの人に求められたいと思います。

そういった自己顕示欲の形として自身の表現活動があるのは間違いないんです。その中でもし、僕の描いた世界観や言葉や表現が、誰かの何かの役にたつことがあるのなら、その可能性は信じたいと思います。

誰かの役に立てる希望と、自分が目立ちたいという欲求とは、「やらぬ善よりやる偽善」のように両方が同居して、それで構わないと思います。

SNSやブログなんかで、社会に意見することが簡単にできる時代です。とてもいいことです。意識の高い呼びかけも、思想を語るのも、自分はダメなんだ、病んでると嘆くのも、すべては表現。

反応が無いと不機嫌になる人もいたりしますが、それも、自己完結ができない…認めて欲しい、というメッセージなんです。

これを「承認欲求だ」「かまってアピールだ」という言葉で片付けてしまいがちなのですが、そうではなくて、みんな本当は「自分は素晴らしいんだ」と思ってるんです。

でも「自分は特別で素晴らしい」とは言いにくいでしょう。僕だってそんなの言いにくいです。自分で自分に、いやいや、まさかそんなことないよ、と認めないんでいるんです。

みんな、素晴らしい存在でいいじゃないですか。

社会のためであるとか、誰かのためであるとか、そういう対外的な価値に置き換えて、遠回りに評価を求めたり。社会とのギャップを感じたときには、自分がダメなんだ、世の中にいちゃいけなんだと、悪者になったり。何かしらの隠れ蓑をつくろうとしてるんです。

いや、素晴らしい存在でいいじゃないですか。

自分が自分のこと認めてあげなきゃ、誰が認めるんですか。自分が一番自分を認められないから、それを他人に託すことで、自分を確認してるんだと思うんですよ。

でもそんなことをいくら重ねても、本当の「自己表現」や「自己実現」という次元には届かないんです。成功体験を重ねたり、承認欲求が満たせば「勇気」や「自信」はついていくはずです。

でも、その「勇気」や「自信」のエネルギーを、いつまでも承認されるためだけに、見て欲しいという欲求のために使うのは無限ループの内側にいます。

その「勇気」や「自信」をもって立ち向かう相手はありのままの自分、です。良いも悪いも含めた、自分を認める、ということ。そこで初めて、自己実現のステージへの扉が開くんです。

「自分に自信がない」「自分を認められない」という人は「自分を実況」してみてください。考える瞑想になります。自分の行動と、心の動き。それを包み隠さず、あたまの中で実況するんです。もちろん心の中でですから、誰にも聞こえません。誰にも知られることはありません。

しかし、それにもかかわらず、人間は都合の悪いことは伏せたがるものです。それをすべて実況していくんです。

「いま自分は答えるのがいやでごまかした」「じぶんだけ得するために黙っていた」「よく思われたくて、3割くらい盛って話した」

そういったことを真正面から意識してください。責めることですもなければ、恥ずかしいことでもありません。そんなの、ただの事実なんです。

人は嘘つきなんです。

誰に聞こえることもない、見えることもない心の動きでも、さかしらな煩悩が浮かぶと、「アクマが囁いたとか」「自分は未熟な人間だ」とか、そういう理屈で「考えたという事実」から逃げるんです。

別にいいのに。そのままにしておけばいいんです。煩悩は、人である証拠です。ならば、それを認めることは、あらためて「人に成る」こと。

自分自身を受け入れるのは、勇気がいるものですが、そのさきに見える世界というのは、よりいっそう「人らしい」景色なのではないでしょうか。

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