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考えすぎの日々学究ノート

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日々の考えすぎな考えごとを綴ったノート。
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2016年8月の記事一覧

音や色の周波数は、波形。波形を奥行きでみると、螺旋になる。渦や染色体、自転公転。螺旋を面にしたら膜になる。膜が連続したら筒のようになる。根っこのように伸びていく、血管のように伸びていく。この世界は繰り返し、繰り返し、繰り返し。

同業者を見ていると、大学や専門学校の講師とか、自分でセミナーやってる人なんかは、ホントは人前にでたくないって人多いよね。だけど、みんな自分が夢中になってる分野を説明するわけだから、いったん話し始めたら、延々と喋りつづけられるんだよ。僕も講義の前はいつもお腹がいたいんだ。

講義するときってある程度のレジュメはあるにしろ、準備はし過ぎないようにしているんです。なんか講義している最中ってなぜか新しい「気づき」がいっぱい降ってきて、ついそれを喋りたくなるので、予定通りいかなくなってしまう。だから、人前でしゃべることがいちばん学習になるのかなって思う。

学校ではファッションを専攻したけど、しごとはグラフィックや企画のデザインが専門なんです。しごとに必要な技術って現場で身につくし、独学のほうがいいやと思うんです。でも学校で学んだことって、10年ぐらい経ってから、しごとの観点や創作物に滲み出てきて、支えてくれてたんだ、ってなる。

あくまで僕の事なんですが、かなり感情を控えて言葉を使います。その、ドキュメンタリーなんかで臨場感をもたせる音響なんかは、受け取る側の感情に味付けをしますね。ドラマはいいとして、最近は報道ですらそうなんです。事実のに近い情感で届くように感情をどこまでのせるかすごく考えてしまう。

言葉を覚えだしたこどもって、友達と別れた時のなんだか哀しい感じを「寂しい」という言葉を覚えてから、強く実感する。不思議なんだけど「寂しい」を認知できた時に「寂しいという感覚」が沸き起こり、涙する。言葉が先で感情があとなんだ。「はじめに言葉あり」というのはこれか、と考える。

実のところは、僕らの生活の中に、気づきや発見が少ないのではなくて、「いっぱいあるけど気づけない」状態なんだ。僕らのアンテナはほっとけば鈍くなる。空の色、風の音、木の匂い、葉っぱ、花、土、アスファルト、ガラス、石、アルミ缶、鉄のかたまり、なんだって愛おしく感じられる。

物事のインプットとなる「感性」、これを伸ばす方法を提供する、というのが僕の命題なんだ。結論は簡単。こどものころに持っていた、世界のすべてに対しての感動を、いまも感じられるようになればいいんだ。「気づき」や「発見」がそれを感じさせてくれるけど、僕らの生活では、全然数が足りない。

人の創造性は、対象を「アンテナ=感性」でキャッチして「アンプ=思考」で増幅させて「スピーカー=表現」で出力して形になると、僕は考える。3つのバランスが「個性」で、このコントロールが重要なんだ。しかし、そもそもアンテナである感性が弱いと、表現の可能性自体を著しく狭くしてしまうんだ。

世の中で起きていることは、世界の流れが表層化したものあって、だからこそメッセージ何だと考える。受け入れてからじゃないと正しい認識は持てないと思うんだ。言葉の裏を読めない人が増えてるとか言うけど、送受信は両方の問題だよ。「言葉の在り方」「使い方」も変化しようと言ってるんだよ。

鬱ような、こころが安定できない状態というのは「考える力」が弱まっている、うまく機能してないと捉えられがちです。だから単純にパフォーマンスが落ちているように見える。そうではなく「感じる力」のほうが弱まっている、と僕は見ます。感じる事が弱まった状態では考えることなんて、できません。

「目に映るすべてのことはメッセージ」という詩は、まさしくメッセージだ。世界の真理でもあり、健やかに生きるための説明原理でもあるな、と感じる。この世界にある物事はすべてつながっていて、自分に語りかけているし、そう捉えることで自分自身がこの世界の一部だと認めてあげることができるんだ。

僕たちは「科学で解明された物事」は「ある」と言い、スピリチュアルみたいに、これだよって示せないものを「ない」って決めがちなんだけど、それは「科学で解明すべき何か」というお題なんだから、もう「ある」んだよね。「ある・ない」議論は、次の時代への動きを鈍化させてしまうよ。

いま、この瞬間という日常は、途方もない偶然の積み重ね・交わりの結果なんだ。それが信じられないくらいうまくシステムが動いている。ボクもみんなもこの宇宙の構成要素なんだけど、宇宙は機械みたいにフリーズしないもん。それすごい感動だと思うんだ。完璧な偶然性による必然の中に自分がいる感動。