大学院と精神科疾患

2018年3月、科学誌Nature を発刊するNature は、「大学院生の3分の1以上が鬱の症状を有する」との結果を発表した。一般的な値の6倍にあたる数値である。

かく言う私も大学院に進学後に精神科通院を開始し、抗うつ薬と眠剤の投与を始めて4年を迎えた。大学院で生活を送った読者の中にも、実際にメンタルヘルスの不調におちいったり、そのような状態に陥った学生に遭遇したりした経験を持つ読者は多いのではないだろうか。

大学院生が精神的に「病んで」しまう原因とは何だろう?


「休めない」状況

一般的な就労者に対する福利厚生というものには、「休職手当」「傷病手当」のような各種手当や保険による支援が含まれる。日本における精神疾患患者の増加と社会問題としての啓発により、鬱病を初めとする精神疾患を原因とする休職や通院に対する理解は向上しつつある。

大学院生というものは学生であり就労者ではない。よって一般の被雇用者が利用する「休職」「手当」といった概念は存在しない。

勿論「休学」という制度は存在する。しかしながら休学中は、各種の奨学金や給付金は停止する。学生生活を送っていないからである。大学院生の多くは20代も後半となり、貸与型/給付型奨学金や、大学におけるティーチングアシスタント(TA)やリサーチアシスタント(RA)による収入により生活している場合が多い。

大学院生の「休学」は、「収入の消滅」さらには「経済的マイナス」を意味するのである。

多くの大学では、大学に在籍できる最大の年数が規定されている。一般的には規定修了年限の2倍(2年制であれば4年間、4年制であれば8年間)までしか大学に学生としての身分を置くことができず、それを超過すると満期退学となる。すなわち、休学年数を重ねると、強制的に退学となるのである。

「○○大学大学院退学」という一文が、後の就職等においてポジティブにとらえられることは決してない。

大学院生が規定年限以内に一定の研究成果をあげられず学位取得に至らなかった場合、もう数年を大学院生として在学することが可能であるが、その際も休学時と同様に奨学金や給付金の類は停止することが殆どである。ある意味の「留年」であるため、授業料が通常通り徴収されるだけでなく、免除や減額といった申請が承認される可能性は大幅に減少する。

「一定の研究成果をあげ」ることが努力だけでは叶わないことは、実際に研究をしたことのある方々ならお分かりのことだろう。

運に左右されるものである上に努力に裏切られることが頻発するから、成果を上げるためには「量」すなわち「時間」で補うことで可能性を少しでも増大させるしかない。決められた修了年限でくっきりと期限が見えていることはモチベーションの向上に有効であろうが、それは「追い込まれる」「焦る」ことと紙一重である。

研究成果を出すことの困難さは研究する年数を重ねるにつれ身に染みる。大学院生はその困難さを知りつつあり、学年を上り期限に近づくほど実感する。しかしそれにどれだけの労力がかかるのかを正確に測ることができるほどには熟達していない。最短で結果を知ることができるほど技術が高いとは言えない。その結果大学院生は、「難しい」「どれだけやればいいのか分からない」「無駄になる実験・調査が多い」という状態になる。これが「追い込まれる」側に一歩向かわせることは明らかであろう。


孤立が進む

「大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)」

2019年に文部科学省が発表したこの文言を見たことのある読者は多いのではないだろうか。

2018年のデータによると、日本における大学・大学院への入学者数のうち、修士課程入学者が10.3%, 博士課程入学者が2.10%である(科学技術・学術政策研究所化学記述指標2019 3.2 章のデータより算出 https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2019/RM283_32.html)。

大学院生は圧倒的「少数派」である。

大学入学時に数十人から百人超いた同期の一部が大学院に進学し、更に各研究室へと分散する。同じ研究室に同学年の学生がいないという状況は、よく発生する。更に、同じ研究室に所属していても大学院生のやることはひとりひとり違う。別個のテーマに、別個のやり方で取り組むのである。同じことをする人間は誰もいない。各研究室の特色によりそれぞれの学生の置かれるに大きな違いが生じるだけでなく、同じ研究室で同じ学年であっても、各々が抱える事態は全く異なってくる。

高校、大学学部での「団体戦」は終わり、完全な「個人戦」に移行するのだ。

同じような境遇に立つ人間が身近に誰もいない、きわめて少ない。そういった状況に陥る。

ただでさえ困難で努力の報われない研究という分野において、まだプロフェッショナルの域に達していない未熟な学生というものが、上記のような状況に立たされる。全く実力も立場も違う教員達と同じ空間と同じ組織で研究をする。

孤立すること、孤独であること、それが精神を病む原因にならないことがあるだろうか。


経済的問題

上述した通り、大学院生の多くは給与と福利厚生を得られず、休職(休学)は経済的援助を得られないばかりか奨学金やRA/TA としての収入を消失させる。そもそもそういった収入というのは、「学生向け」のものであり(そもそも雇用関係ではない)通常の生活をするにあたって潤沢とは言えない。また、これらの収入からは保険料や税金が天引きされておらず、それらを含めると手元に残り生活に使える額は額面より遥かに少ない。

学生の貧困が社会問題として取り上げられることもままあるが、大学院生も同様である。加えて、学振(DC1, DC2)を初めとする大学院生の収入源によってはアルバイトによる副収入を禁止している場合もある。単なる「貧乏」ではなく、自分が働けば稼げる、というものではない。

大学院生の多くは20代も半ばに差し掛かっているだろうが、この収入の少なさはライフプランにも影響しうる。具体的に言えば、結婚や妊娠出産・子育ての費用を捻出できないのである。

多くの同年代が自らの生活に十分な収入を自ら確保し種々のライフイベントを迎えていく中、(場合によっては貸与型奨学金の将来の返済を増やしながら)自分が十分な生活費を自らの働きで確保できていないということに、劣等感を抱くなとは言えない。


経済的不安定性を抱えている点は任期制や非正規雇用の若手研究者と類似しているが、決定的に違う点は「経歴」である。

大学院生の多くは「職歴がない」のである。

就活における有利不利はそれぞれあり断言できないが、これまでの職歴、すなわち経歴がないことは、業績がないことと同様に、自信を得る要因がひとつ少ないということを意味する。


生物学的・社会的タイミング

学生に限らない日本全体の人口において、20代の死因のトップは自殺である (厚生労働省 令和元年(2019)人口動態統計月報年計)。

うつ病は20代を中心とする若年者で発症しやすい。(MSD マニュアルhttps://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/10-%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E6%B0%97%E5%88%86%E9%9A%9C%E5%AE%B3/%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85)

日本人の20代というだけで、うつ病のリスクは高いのだ。


教員という上司

自分の指導者・上司がうつ病や精神的不調の原因となりうることは、全世代に共通している。大学・大学院において注意しなければならない点としては、「大学の先生は ”教育” を勉強していない」という点である。


第三者、専門家の介入

うつ病を初めとする精神疾患の予防・改善のための友人など外部の人間の介入についてはここでは言及しない。

現代日本では精神疾患に対する理解が深まってきたとはいえ、いまだに鬱状態を主訴とする医療機関の受診、とくに「精神科」の受診は敬遠されがちな傾向にある。最近では「心療内科」の受診を第一に考える場合も多い。大学の保健室・健康管理センターなどに精神科が設置されていたり、紹介を受けられたりする場合も多い。

ここで強調したいのは以下の2点である。

「友人等からのアドバイス・他者との交流による効果は個人差が大きい。場合によってはマイナスになる」

「臨床診療で処方される抗不安薬・睡眠改善薬の効果は医学的に証明されており、多くの人間で効果が表れる」


精神疾患は少なくとも数ヶ月、場合によっては年単位での治療が必要な疾患である。一生の傷を残すことも少なくない。

しかし、学生生活は短く、卒後の人生は長い。


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