「他人の経験はn=1だから」と死屍累々

「n=1だから」

    SNSなどで「キャリア」「生き方」「職業選択」などが話題となった時、「成功した、うまくいったという例は生存バイアス」「人のキャリアや経験談は所詮"n=1"だから」というコメントが必ずと言っていいほど目に入る。

    私になじみのあるアカデミア・理系大学院生・若手研究者のコミュニティでは、学振(日本学術振興会特別研究員)の審査結果発表の直後に、上記のようなコメントがごまんと発生する。
    「学振に採用されたら研究者としての未来は明るい」というのが基本的な了解であることを背景に、「私は学振に採用されなくても研究者になって今助教として働いている」「学振はとれなかったけど他の奨学金で博士号を取った」という励まし(?)に対して、「うまくいった人の経験談には生存バイアスがかかっていて、学振とれずに研究者になれなかった人はたくさんいるけど、そのことを発言しないだけだ」「ひとの成功談なんて所詮"n=1"なのだから安易に楽観視してはいけない」「1人の成功例を信じず自分の道を行くべきだ」というコメントがつくのだ。
    この現象は、毎年といっていいほど起こる。海外留学をするか否か、修士課程から博士課程へ進むか否かなど、ある種の「人生における比較的大きな決定」が話題になった時、良くも悪くも使われるのが「人の経験談というものはあくまでもn=1だから」という考え方である。

    サンプル数が少ない仮説は真と断言しない、という思考プロセスは、なんとも科学者らしいものである。「所詮"n=1"だから」という文言は、「他人の意見に惑わされず自分の道を行け」という励ましと、「安易に一人の経験談をもとに判断するな」という警告を含んでいる。

"n"にふくまれなかったもの

    10年ほど前、広島大学教授で深海生物の世界的研究者である長沼毅氏の話を聞く機会があった。彼は日本だけでなく北極・南極の海に赴き研究をしたり、宇宙飛行士の採用試験を受けたり、個性的な分野を専門とする研究者であると同時に、非常に活動的な人物である。

   彼はこれまでの研究や経験について一通り説明した後、人生は選択の連続であるという話をした。「ある選択肢を選ぶということは、他の選択肢を捨てることである」と言った。

そして怒声に近い声で続けた。

「数々の選択をして進んできて、振り返るとそこには、選ばなかった選択肢という死屍累々が転がっている。振り返ればいつでもそこに、私が捨てた、死屍累々が、延々と転がっている」

   当時の自分では思い至らなかったが、今振り返ってみると、背後に転がる無数の死屍累々こそが、"n"としてカウントされるべきものだったのではないだろうか。

   ひとつの選択と、その先にあった未来というのは、キャリアというのは、ただ1回の「試行と結果」で、その解釈は成功バイアスと、成功しなかった者の沈黙に修飾されている。

   成功を語る人の、成功せず沈黙する人の、そして自分の後ろには、どれだけの死体が転がっているのか。

    そしてそれらは、選択の結果よりも、ずっと大きいサンプルサイズを備えている。結果はすべて「死体になった」だけども、それに至るプロセスは、”所詮”とは言わせない多様性を備えているはずである。

死体でできた道

    人間の語る、経験とキャリアは、成功談と失敗談は、"n=1"の唯一の結果だろう。しかし彼らの後ろには、そして自分の後ろには、"n=1"に辿り着くまでに殺された選択肢という死屍累々が、これまでの道のりを示しているのだ。

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