見出し画像

厚顔無恥という言葉から考える、いじめの発生と現実

厚顔無恥、という言葉があります。
あつかましく、恥を恥と思わないこと。
つらの皮があつく、恥を知らないこと。
そんなふうな意味です。
この言葉はたいてい、他人を貶すときに使われるでしょう。

「あいつは、厚顔無恥だな」というと、

相手を恥知らずな奴だといって、批判するような意味になります。
この言葉の面白いところは、使う相手が強い人間か、弱い人間か、によって意味が変わることです。

どういうことでしょうか。

先述の例は、自分よりも強い人間がいて、その人だけ得をしているときに使われることが想像できます。

ではそれが、自分よりも弱い人間だったらどうなるか。

今度は、厚顔無恥になれと、あたかもそれが義務であるかのように、押し付けられるのです。
例えば私の容姿に特徴があるとします。その特徴を本人が気にしていることも明らかで、社会の特定の場所、例えば学校や会社のなかで、自分が浮いているように感じています。
そんな私に対して、誰かがジョークを飛ばします。容姿の特徴をイジるようなジョークを。

そのとき私に、どんな反応が求められているでしょうか。
それは当然、そのジョークを一緒に笑うことです。
そこから外れた反応をすると、どうなるでしょうか。
あいつは空気が読めない、ということになって、さらに弱い立場へと追いやられるのです。

こういうことは、そこかしこで起きています。
特別な悪意が無くても起きてしまうことです。
だからそこにある、「言う側の心理」を研究する必要がある。

厚顔無恥という言葉を使う人にとって、この言葉は一つの境界線です。
相手が自分よりも強いのか、弱いのか、というラインです。
ここには複雑なバランスがありますが、できるだけ簡潔な道筋をたてるためには、そのすべてを文章にはできません。
ひとまずは、相手が自分より弱い立場にあることで、自分の優位性を保ちたい、という心理について考えます。

学校や会社、もっと抽象的に言えば集団性が生じる場所にいるとき、人は常に交戦状態にあります。
いま言った交戦状態という言葉は、比喩です。
どういうことを言いたいかというと、戦いが起きているということです。
そこにいる、人と人が戦っているのでしょうか。そうとも言えます。

ではどのような戦いなのでしょう。

教室の中を思い浮かべると想像しやすいでしょうか。
近年カーストという言葉が流行り、それは当たり前になって取りざたされなくなったふうに感じますが、身分関係における秩序がそこにはあります。
この秩序、上下関係の中で、できるだけ自分が上に登りたいという戦いが生じるのです。
それは致し方がないことです。上下関係が生じない集団というものを想像することの方が難しいですし、上下関係があれば、下の方に入りたくないのは当然です。
しかしときとして、この戦いがとても血なまぐさいものであることは、皆さんも体験したことがあると思います。

その集団を構成する成員が全員、「その集団が持つ目的」にポジティブであれば、あまり血なまぐさい戦いは起きないかもしれません。それは、成員が率先的に集団になることを求める場合です。
率先的に集団になることを求めていれば、その集団のあらゆるバランスを良好に保とうとするからです。

しかし、強制的に成員にならなければならない場合、話は変わってきます。
それが、先述した例えの教室です。
教室というのは、国家の都合で特定の年齢の人間を強制的に箱詰めしている状態です。
そこで何が起きるのか。いじめが起きます。

いじめというものについて、ある仮説を書きます。
教室という集団性は、その成員になる人間たちの間に、交戦状態を引き起こします。
交戦状態において、力関係が生じて、その偏りが顕著になったとき(そのときのパターンの一つとして)、いじめが顕在化します。
そのとき、強い立場にある人間たちは、自分が弱い立場へと落ちていかないように必死になります。
弱い立場の人間は、自分がさらに弱い立場へと追いやられないように、自分の身の振り方を考えます。

このときに厚顔無恥という言葉が、現実に一本の線を引きます。
その言葉の同一線上に私がいるとして、私より上の立場にいる人へは、自分のいる立場よりも下に降ろそうとする侮辱の言葉に。
私より下の立場にいる人には、その立場に留まるように、という命令の言葉になります。
その命令は、「あらゆる自分の恥を恥とも思わずに笑え」といいます。

例えば私があなたを見下すようなジョークを言ったとき、あなたはその見下された視線を肯定し、一緒に笑うことで、お互いが自分の立場をより固定的にする。
この言葉を発した側は、「そこで一緒に笑わないと、よりお前は低い立場へと落ちていくぞ」という駆け引きを生じさせています。

どうして人はそんなことをしたがるのでしょうか。
それはきっと、カーストという上下関係の中で、自分の位置を守るための防衛手段なのでしょう。
上記の話は、厚顔無恥という言葉を使う側の視点に立って書いたものです。
こんどは厚顔無恥という言葉を「使われる側の視点」で文章を書きます。

これから書く内容は、自分が弱い立場へと追いやられている状況についての考察です。
先に出したたとえ話をもう一度引っ張ってきます。
私には特徴的な容姿があり、それを引き合いに出されてジョークを言われているとします。
何度も繰り返し訓練された反応として、私はそのジョークを言ってきた相手と一緒に笑います。
あるいは、曖昧な表情を浮かべて戸惑うのかもしれません。
こうすることによって、私は自分の皮を厚くして心の傷に耐え、カーストという秩序を維持します。
それは秩序を乱さないための、精一杯の努力です。
その努力の裏で、どんなに自分の心がズタズタになろうとも、私は笑うのです。

さて、本当にそんなことをする必要があるのでしょうか。

現実的に、そこでジョークに怒り出し、喧嘩でも起こしてしまったら、明日からの自分の立場はさらに悪化するでしょう。
だから、一緒にそのジョークの空間を保つことは、自分の明日からのカーストを維持するための戦略でもあります。
しかしここでは、その戦略とは別の方法を考えたい。
本当は、そんなに皮を厚くして、どんな刺激にも耐えられるようにしていくことは、心を不健康にしていくことと同義だからです。
心を不健康にしないと過ごせない現実というのがあって、それが変えられないのだとしても、なんとか別の仕方を考えることが、この文章の目的です。

厚顔無恥という言葉が、弱い立場に人間に命令する内容についておさらいします。
弱い人間は、自分の弱点を笑いに変えることで、カーストという秩序を維持し、そのためには面の皮を厚くして、恥を恥とも思わず、堂々とその場で笑いのネタにされ続けろ。
そういうことを命令してきます。
こうなったとき、当事者には何ができるでしょうか。

まず、そのカーストから抜け出す必要があります。
そのためには、カーストから抜け出すための場所、自分を保護してくれる場所を確保しなければなりません。
そんな場所を作るためには、誰もが、誰かを助けるための居場所になる必要があります。
あなたが、見知らぬ傷ついた誰かを助ける居場所になるということです。
どうやったら、自分が人の居場所になれるのか。その意識を持ち続ける必要があります。

沢山のことが必要になります。

でも、みんなが、一つの秩序の中で傷つき続けるよりも、その秩序から抜け出して、互いに自分らしくあれる居場所で生きていくことの方が、よっぽど幸福だと思うんです。
だから、あらゆる場所で、あらゆる人が、そのカーストから抜け出して彷徨っている誰かを受け入れてあげるんです。
そういうことが現実に可能なんだ、という認識が現実になることによって初めて、自分のいるカーストから抜け出すという選択肢も現実になります。
いじめの犠牲者をひとりでも減らすために、活動しましょう。

僕は、やさしいせかい、というコミュニティをつくることにしました。
そこを自分の居場所にするために、そして、同じような傷を負った人の居場所になるようにしていくための活動です。
まだ、始まったばかりで、土に種を撒いたばかりですが、土から目がでて、土の下にも根っこが広がっていくように、この活動が広がっていくことを目標にします。

これを読んでくれた人がいるとしたら、あなたはどんな活動ができるでしょうか。そんな想像をしてくれたら嬉しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?