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読書感想文はどの本で書く?

 うちには"小さな悪の組織"というのがあって、読書感想文を書くのだそうである。その候補をいくつか積んである。そのなかに「クリームイエローの海と春キャベツのある家」がある。その本で書けばええと思うのだ。ほれ、クリキャベで感想文書いたらええがな。書きなはれ。


 なぜそう思うのか。
一冊の本でいくつもの見方が可能であって(それは良作の必須条件である)、作品を通して読んだ人それぞれの考え方があらわれると思ったからである。


 主人公の女性・津麦と、津麦が作中で変化していく過程を共有する、男性・朔也というふたりの大人がいる。
 津麦は朔也の家へ仕事をしに行くのだが、そこで一所懸命に仕事をこなそうとする姿から、仕事をするとはどういうことか、人の役にたつとはどういうことか、に思いを馳せることができる。あるいは、津麦や朔也の心の変化は何によって起こり、それを知った自分はどう感じたのか。
 読む人によっては、勤め先で津麦の仕事を見守り続ける安富さんの存在が気になるかもしれない。

 衣食住という言葉を開いて、衣、食、住それぞれの切り口から、登場人物は今の自分の環境をどう思っているのか、あるいはそれを想像した自分はどう感じたのかを言葉にすることもできるだろう。

 また、作中で津麦は親との関係を振り返り自分なりに消化しようとする。一方の朔也はいま目の前にある子供との関係を抱え込んで踏ん張ろうとする。そう考えると、親子とは何かという視点で読むこともできる。親の視点、子の視点。あるいは、親から見た子、子から見た親がどう捉えられるのか。

 文章だけで料理のおいしさが表現できる筆力への感想だって出るだろうし、単純に「キャベツってこんなにいろいろな料理に化けるんだ」ということかもしれないし、それだって立派な感想文になり得る。




 感想文に「正解」はない。
 「自分はこの本を読むまえと読んだあとで、気持ちにこんな変化があった。景色がこんな風に見えるようになった」
 それが感想であって、読書とは一種の旅のようなものである。感想文に正解などないのは、旅に正解がないのと同じである。

 旅とはたとえば、家から出発してどこかへ行き、また家へ戻ってくる一連の行動のことである。読書もそれに似て、読む前と読んだ後で、同じソファに座っていることもあるだろう。しかしなにかが違っている。見える景色が少し違ったり、触れる空気が変わったように思ったり、聞こえる音が新鮮に思えたりする。

風景は同じ、人々の顔ぶれも同じ、そこに置かれているものも同じわけです。しかし何かが大きく違ってしまっている。そのことを我々は発見するわけです。その違いを確認することもまた、旅をすることの目的のひとつです。

村上春樹 夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです


 本を読んだ後、じぶんのなかに生じた心の変化をとらえて文章の形にすること。それが感想文になる。これを書くには自分の心を動かす文章やものがたりに出会わなければならない。そのひとつの選択肢として、わたしはこの本を推したい。