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太宰治「お伽草紙」と過ごした ひと夏

ただ、ふつと好きなんだ。

わたしはその言葉に救われたような気がした。



わたしは母島へ行ったのだった。

母島というのは、東京都の小笠原村にある。
竹芝のフェリー乗り場から、
父島まで片道24時間、
母島までは、そこから船を乗り換えて更に2時間。

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東京都でありながら、
われわれが
「東京」という単語から
何気なく思い浮かべる場所よりも
約1000キロの南にある。

おが

そこへ行ったときの話。


🐢     🐢     🐢


わたしはこのとき
ぼろぼろに疲れ切っていた。
そのころのことは、
いちど文章にしたことがある。
わたしには、休息が必要だった。
ただ自然のなかで
何も考えない時間がほしかった。


そうして母島へ行って
沖へいくため
船を出してもらった。

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すると
沖合にウミガメが浮いていた。
ただ波に任せて。
わたしは
あのように頼りなく漂っていては
竜宮城まではたどり着けまい、
と思ったのだった。


亀というのは
太宰治の書いたお伽草紙のなかの
「浦島さん」という作品において
頭の回転がはやく
いろいろと理屈をこねてしゃべる
という役割を与えられている。


しかし実際に海に出てみて
独り生きている亀を見ると
どうしたものかと思う。

たしかに水中の亀は
フリスビーが飛ぶように
自在に泳ぎまわる。

しかし
水面へ浮かび
息継ぎをしようとしてる亀はどうだ。
ただ波にゆられ喘ぐように漂っている。
青い海に溺れるように浮いていて
最初は廃タイヤでも浮かんでいるのかと
勘違いしたほどであった。

あれなら
子供にいじめられたって文句は言えまい、と思った。

しかし亀は亀の立場で
水中ならこちらに分があるものを、
と思っているのかもしれず、
それが人間の言葉とは
通じ合わないだけであるのかもしれず、
人間の立場から
一方的にものを言うのははばかられる。

たとえば亀と言葉が通じるとして
わたしが
「あ、あんなところに亀が」
と言うや否や、その亀が
「ちょっと姿を見ただけでこれだ。」
と言い出したらたまらない。
「海に舟を浮かべて
 私の息継ぎの無様なところを見ながら
 笑うのが風流だとお思いですかい。」
なんてべらべらしゃべりだしたら。


太宰は
小笠原や沖縄のタイマイを話の中に挙げていた。

浦島さんは昔から丹後の水江の人ときまつてゐるらしく・・・いかにお伽噺は絵空事ときまつてゐるとは言へ・・・どうしても、これは、小笠原か琉球のたいまいに、日本海までおいでになつてもらはなければならぬ。


ほら、わたしが見たのは
本物の小笠原の海亀だよ。

もしもし亀よ、
あなたの甲羅へ乗せてもらって
ちょいと竜宮まで行けますかね。
わたしは浦島さんではないけれど。


浦島さんという人は、
太宰の書いたお伽草紙のなか
どうやら亀に好かれたのである。
亀のいうことには

好き嫌ひは理窟ぢや無いんだ。
あなたに助けられたから好きといふわけでも無いし、
あなたが風流人だから好きといふのでも無い。
ただ、ふつと好きなんだ。

その台詞を思い出すと、
水面に喘ぐ様子も
愛嬌のある顔にも思えてくるから
印象なんてあてにならない。

印象なんて、あてにならない。
あてになんて、ならない。
………自分さえも。




わたしには、休息が必要だった。

あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲芸かと思つて、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。

「美しい花が咲いてゐる」と信じ得た人。
信念を持った人。
自分にも、そういう人だった時期が
あったような気がする。

そういう「信じる心」を持てなくなって
ただ遠くで静かにすごしたかった。

藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしてゐるなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。

そうやって
無我夢中になれる日がまた来るのだろうか。
何の頼りにもならない未来を前にして。

わたしには
未来に目を向ける、ということをやめて
ただ、たゆたう
ただ、過ごす
そういう時間が必要だった。




水面に浮かぶ亀を見ていると
おとぎ話の亀は、
わたしの頭の中、まだ語り続ける。

あなたに冒険心が無いといふのは、
あなたには信じる能力が無いといふ事です。
信じる事は、下品(げぼん)ですか。
信じる事は、邪道ですか。
それはね、頭のよさぢやないんですよ。
損をしたくない
といふ事ばかり考へてゐる証拠ですよ。


いまのわたしに、信じる能力は、ない。


信じるとは。

わたしは。


また、信じる力を持てるのか。
そういう日がほんとうにくるのだろうか。
両の手で水を掬っても掬っても、
むなしく隙き間からもれてしまうわたしは。
信じることができるのか。


何を信じるのだろう。
人を?

何を信じるのだろう。
明日を?

誰を信じるのだろう。
自分を?


ただ、ふつと好きなんだ。

亀は太宰の作品の中において
心に浮かんだままの言葉をしゃべったのだ。
べらべらと口を突いてでる理屈ではなく。

亀は、自分の心の動きをそのまま信じた。

好き嫌ひは理屈ぢや無いんだ。


あの亀は息継ぎを終えたら
また海中を悠々と泳ぎ回るのだろう。
どこへ向けて、なんてことはなく
心の赴くままにただ泳ぐのだろう。
海の中は、彼らの世界だ。




船は進み
亀の漂う沖から、島へ近づいた。
すると船首から声が聞こえてきた。
たまたま沿岸にいた
野生のイルカの群れに遭遇したのだった。

そのなかの一頭は
水面におなかを出して
尾びれで水面を何度もなんども叩き続けていた。

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あれは遊んでいたのか仲間への合図なのか
と考えてしまうけれど
きっとイルカはそうしてみたかっただけなのだろう。

いるか

船から海へ入ったわたしが
群れへ近づこうとしたら
群れは
音もさせずに
ずっと先まで泳いで行ってしまった。


わたしは水面に顔を出した。
海は青く
しかし
そのほんのわずかの水を手で掬ってみても
青くはなかった。
海が青くなるためには
それだけの水の量が必要なのだった。

もういちど
海の中へ潜ってみた。
遠近感がなく音もない
ただの青い世界だった。

うみ


太宰は
このような海を見たことがあったのだろうか。

眼をひらけば冥茫模糊、薄みどり色の奇妙な明るさで、さうしてどこにも影が無く、ただ茫々たるものである。『竜宮か。』と浦島は寝呆けてゐるやうな間伸びた口調で言つた。

真っ青な海のなか、わたしには竜宮は見えなかった。

そうして頭の中では
さきほどの亀がまたしゃべりだす。

あなたはどうも陸上の平面の生活ばかりしてゐるから、目標は東西南北のいづれかにあるとばかり思つていらつしやる。しかし、海にはもう二元の方向がある。すなはち、上と下です。なぜ、あなたは頭上を見ないのです。また、脚下を見ないのです。海の世界は浮いて漂つてゐるものです。


なぜわたしは。

前や後ろばかり見て
上や下を見ないのか。
歩いていても
自分の上に空のあることを忘れて
地に足のついていることに気づかず
ただ歩いている。
陸上の世界にも、頭上や脚下はあるというのに。



イルカ達の見えなくなった海の中に全身を置いて漂う。
波に合わせて上に下に。
水は空気のようには流れていかない。
相変わらず漂っている。

人間のからだひとつ
水の流れに逆らえず、波にもまれてなすがまま。
当たり前のことを自分のからだを通して知った。

おそらく30秒か長くとも1分程度だったと思う。
わたしは海の上に頭を出した。


水面はきらきらとひかり
目を細めて周りを見渡すと
わたしの乗っていた船はいつの間にか
指先ほどに小さくなっていた。


わたしは竜宮へ行ったわけではないけれども
ひととき海の中へ身を置くことで
少し気分が変わった気がした。




浦島さんは
竜宮から帰って来たらどうなったのだろう。

浦島は乙姫に向つて、さやうなら、と言つた。この突然の暇乞ひもまた、無言の微笑でもつて許された。つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙つて小さい貝殻を差し出す。まばゆい五彩の光を放つてゐるきつちり合つた二枚貝である。これが所謂、竜宮のお土産の玉手箱であつた。


わたしは
島から離れて家に帰ってくる。
玉手箱など、ない。
何を持って帰って来たのだろう。

青い海で
亀に会い
イルカに会い
海の中を眺めて
ただ空想して帰ってきた。


そうして帰って来て日々を過ごし
何年も経ってから
夏の暑さをきっかけに
その時のことを振り返っている。


思い出すことも思い出さないことも自由だ。
自分のさじ加減ひとつで忘れようとすることもできる。

過去の出来事を手のひらの上で転がして
上から眺めたり横から眺めたりして
しばらく物思いに沈む。
それは玉手箱に似てはいないか。


それを開けるかどうかは
本人に委ねられている。

つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。

開けなくったっていいのだ。
開けたくなったら、開けてみればよいのだ。

開けてみたらどうなるのか。
開けてみる人の、心しだいである。
始めから終りまで、許されているのである。

開けたものをどう解釈するのか、

自分の心のままでよいのだ。


太宰はこれに
ひとつの答えを差し出している。

わたしはそこに
太宰の、人間への純粋なまなざしをみた。




※引用部分は全て青空文庫より