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居酒屋にて 〜マエダクン(仮名)のこと〜

マエダクン(仮名)はいつも何やら胸のうちに抱えていて、それを誰かに聞いてほしいのだ。

そんなんやったらええ人探せよ。

そういう真っ当なことを言うとすかさず「それがやなぁ」というスイッチが入ると共に広長舌をふるうというか、平たく言うとクダを巻くので、わざわざ言わないだけである。
君の友達はみんなそう思っているのです。


きれいな人という存在がある。これは確かにある。

居酒屋でマエダクンが言いたかったのは、一言でいうとそういうことであった。


小説は、一言で言えば済むようなことを何倍にも引き伸ばして語る、と言った人があったが、マエダクンの広長舌も似たようなものである。
彼は、小説家か何かになった方がいいのかもしれない。
しかしその彼であるところのマエダクンは、
化学分析で使う測定機器を売らんと営業活動に勤しむ毎日なのであった。

これは居酒屋の席にパーテーションが設置される前の話である。


*   *   *


「今日な、こっちへ来たやん。
取引先の人らと打ち合わせやってん。
ほんでな、もう顔見知りの人なんやけど
先方のメインの担当の人はだいたい同年代の人でな、
この人がとんでもないねん。
あかん。あれはあかん。反則やで。


あのう、マエダクン、
しょっぱなから話の腰を折るようでアレなんやけど。
あかんのはわかった。
でもそのあかんのが、
とんでもなくスゴいのか、とんでもなく抜けているのか、
そこんとこどうなん。

「それやがな。鋭いっ!

私はこの時点でもう一人の世界に入っている。
冬といえばおでんだ。
冬の入り口にいる私たちの前にはおでんと徳利、蛇の目が並ぶ。

「もうな、すごいねん。
頭ん中にいろんな知識が全部入ったあんねん。
全体の構成とかな、製造のボトルネックとかな、
材料のこともそうやねんけど、
うちの売る装置見たんかって突っ込みたくなるくらい
何か想像力いうか、本質を突くっていうんかなあ、
何かすごいねん。

確かに、そういう人は居る。
頭の中に全部入っているのだ。
物事を見るときにいつも焦点が合っている。
そういう人は、鋭いだけではなくて、馬力がある。

マエダクン。

今日は珍しく言ってることがわかるよ。
確かにすごいよなあ。

それだけではないのだ。
そんなスーパーマンみたいな人なのに、
いや、そうであるからか、
驕りなどかけらほどもなく、
目の前の課題に体当たりでぶつかって、
何とかそれを乗り越えようとする。
そこまでやるか、というほど力を注いで、
乗り越えたときは周りと一緒に喜ぶのである。

その迫力と爽やかさを羨ましいと思い、
同時に妬ましく思うマエダクンの独白を、
私は黙ってうなずきながらただ聞いていたのだ。

わかる、わかるよマエダクン。

そういうスーパーマンは、
何かキラキラしてて、羨ましいよなあ。
なんかこう、きれいな人って感じがして。

「せやねん!
男とか女とか関係なくて、何かキラキラしてんねんな。
違う世界に住んでるんかなぁ。
俺の世界、キラキラしてへんもん。

マエダクン。気の持ちようやん。
しっかりせんかいな。
ほら、もう少し飲んだら?

「何かな、思うねん。こういうときに。
飲む酒は絶えずして、しかももとの酒にあらず。
昔のエライ人が言うてたやん。

…マエダクン。
誰もそんなこと言うてません。
わかった。
あんたもエライ。
しかしまぁ、相変わらずとはいえグダグダなってきたで。

「せやねん。あかんねんな。
俺なんか三流やもんなあ。
あんなキラキラでけへんよ。
なんか嫉妬するわぁ。
あぁ、俺ちっさいなあ。
嫉妬やて。…だっさ。俺だっさぁ。

マエダクンは、勝手にうなだれてしまった。
しばらく箸置きを見たまま黙っている。

「いやっ、ちゃう!
嫉妬とちゃう。

お。
あんた、とうとうやる気になったんか。

「嫉妬ちゃうねん。
ただ不公平やねん、世の中が。
世の中が不公平やからこうなるんや。

私は目をつむって黙っている。

「うわあぁ、世の中は薄情やなあ。
いや、ちゃうねん。
薄情いうよりは無情やねん。
薄情と無情。
どっちがヒドいんやろ。…なあ。

マエダクン。
何がちゃうねんな。
わけわからんわ。

「せやねん。
わけわからんねん。
なんかアレやなぁ。
カウンターに向かいてグラスに映るよしなし事があんねん、ここ、映るやん。
ほんでブツブツ言うてみるやん。
言うてるうちに、
何か自分が正しいこと言うてるような気になったりすんねんな。
そんで、俺って意外とそういうこと思てんねんなぁ、
とか気づいたりするしな。
何かすごいよな。
これって、あやしうこそものぐるおしいっちゅう感じなんやろな。
…ハァ、何やろな。

マエダクン。わかったわもう。
何なん、よしなし事って。そんなん今まで言うたことないやん。あんたは飲みすぎて現代の居酒屋でクダ巻いてるからあかんねん。
吉田兼好の時代に生きてたら、
私らはあんたの書いた文章を学校で習ったと思うよ。

「せやけどな、実際現代に生きてるやん。
…うわぁ~。俺なんで現代に生きてんねん。
なんやねん、これ。

知らんがな。
あんた、電車なくなるでほんまに。

彼は、ぐるぐる考えたままであった。

*   *   *

こういう時間を憂いなく過ごせる世の中が戻ってくるのか、わたしの心配事のひとつである。