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調和、あるいは共鳴という体験

ウミネコ文庫、ご存知ですか。

 童話と挿絵を異なるクリエイターに依頼し、作品のみならずそのマッチングも楽しもうという面白い企画です。文章募集は終了しましたが、挿絵はまだ募集中です!



さて、わたしはそこへ応募するために文章を書いたのであった。

書いたものをリリースしたわたしは、挿絵を特定のどなたかに描いてもらいたいと思っておらず、そのわりにいつもの如く、時間と共にほどよいところへ流れつくだろう、くらいに思っていた。

それが、挿絵を書いてくださる方がすぐに決まったのである。KaoRu IsjDhaさんである。まさかオファー下さるなんて。

周りに人がいたら「あんたどないしたん?」と聞かれるくらい喜んだわたしであった。具体的には、虚空を見つめニタニタする、スーパーマーケットで流れる音楽に合わせ尻を振る、その音楽を鼻唄で歌い続ける、あるいは、コンビニの自動ドアが開いた瞬間に右手を挙げ「うむ、苦しゅうない」と言う、などしておった。

お願いした時点では、文章のテイストと画風は少々存じ上げているものの、どんな仕上がりになるのかまったくイメージがなかった。何往復かメールでのやりとりののち、ありがたいことにイメージ合わせが出来てきたと思っている。

これまでのことを少し書き留めておきたい。


過去に文章と絵で合作したがことがないか、というと、ある。

イシノアサミさんの魅力的なイラストに、わたしは文章を添えてみた(その後、うたにまでなって、みんなでうたった!)。

このときはイラストがまずあった。これを元にしてイメージをふくらませて文章を仕立ててみた。イラストから受けた強い印象を自分なりに表現できたように思う。



今回は、驚くべきことにわたしの文章が先にある状態からスタートするのだ。

そんなんやったことないです先生。

言うてみたが先生なんかいてへん。なんちゅうこっちゃ。そしてきっと、進め方に正解など、ない。ではどうするか。

絞れ、ない知恵を。倒置法である。

挿絵を描いていただくにあたって先の例から考えると、わたしの文章を元に、KaoRuさんにイメージを膨らませていただく必要がありそうだ。そういうのはわたしにとってはまったく経験のないことで、つまりは、何を伝えればいいのか、どうしたら前へものごとが進むのか、どうもわたしにはわからないのである。
だがしかし、KaoRuさんは寛大な心でわたしの言わんとすることを受け止めてくださったのだ。


創作における初めてのやりとりである。そういうやりとりは誰ともやったことがない。距離感がまったくわからなかった。

まず、お願いする枚数と画風を決定し、ものがたりの基本事項を確認した。いちばんの外枠である。

次に、わたしの思っていたことを何点かお伝えした。面倒だから伝えない、などやってはいけない。表に出たものがたりを含めて言葉で伝えたものを、言葉とは異なるやりかたで表現していただくのだ。そのためには自分の考えたこと、イメージしたことをお知らせしなければならない。なぜならば、黙って「じゃあお願いします」だけでは、依頼していながら創作の材料を提供しないことになると考えたからである(違うやり方があるのも理解はしているが)。表にでた文章は、表現の一端に過ぎない。

たとえば、不十分なやりとりののち挿絵をお送りいただいて「いや、そういうのじゃなくてですね……」というのは、やってはいけないと思う。お互いの考えていること、表現の効果や意図、そこに至る道のりを共有することで、そういう事態は避けられる。やりとりをしているうちに位相が合わせられる、あるいは合ってくる、わたしはそう思った。それは妥協とは違う。


一般的に、挿絵は文章に比べて分量が少ないけれども、子供の頃読んだ本をおとなになってから思い出すきっかけは、文章そのものだけではなく、装丁であったり挿絵であったり、文章以外の要素であることも多い。

そう考えると、ものがたりという見方からは文章が主とはいうものの、挿絵は記憶において大きな位置を占める。つまり、挿絵は文章に比した分量に関わらず、添え物なんかではまったくない。文章は挿絵と、挿絵は文章と調和し、共鳴するものである。


ラフスケッチをお送りいただいた。早い。早過ぎる。風が語りかけくることはなかったが、十万石まんじゅうを彷彿とさせる表現をしてしまうくらい早かった。すごい。
それが完成品ではないとはいえ、「ああ、やっぱりお願いしてよかった」と思ったのである。なにが「やっぱり」なのかと問われても、根拠はない。根拠はないけれどもやっぱりお願いしてよかったのだ。直感とはそういうものである。わたしはやり取りのなかで、創作って何だろうな、と思う。それはもしかしたら対象への敬意、相手への敬意から生まれる何かしらなのかもしれない、と感じた。


ラフスケッチを受け取ったわたしは「自分が書くときに想像していた景色が"正しい"ものとは限らない」と思っている。ものがたりを生み出すのはたしかに書き手であって、書く時に特定の明確なイメージをきっかけにすることもある。たとえそうであったとしても文章の外側にあるものについてさまざまな想像を巡らせるのは(書いた後の書き手を含む)読み手である。

ものがたりは読み手があって初めて完成する。それは書き手が当初意図していたものと同じとは限らない。そう考えると、挿絵の描き手もまた読み手なのだから、書き手の意図したところはあるにせよ、その想像の力をぞんぶんに活かしていただけるとうれしいな、と思った。

そうして、ものがたりに書いていない背景にあったであろうさまざまなこと、書いた時に考えていたこと、ものがたりはきっとこうだったんじゃないかという書き手の推測、をできる限りお伝えした。



ウミネコ文庫に収録されるのは、書き手と描き手の合作であって、もちろんその完成品を楽しむのがひとつの目的ではあるけれど、ひとつの作品を作り上げようとするプロセスがこんなに刺激的なものだとは思わなかった。このプロセスを体験できて、あ、そうか、創作者どうしの交流を作り出すこともウミネコ文庫の目的だったのか。今になって気づいたのか。いやしかし実感が伴うと同じ言葉でも違って響くのである。すごいやないか。ね。

初手からこんな感じである。

出来上がったらわたしはいったいどないなってしまうのか、予想がつかない。わたしは今日もひとりで「おおおお!」と唸っている。



童話と挿絵とをひとつの作品として仕立てる、というアイデアの素晴らしさがあって、こういう体験ができているのです。
ウミネコ編集長とKaoRu IsjDhaさんに感謝なのです。

挿絵を描いていただくなんて、書き手としてほんとうに貴重な体験です。これから挿絵を描かれる方はぜひ、書き手の方とのコミュニケーションも楽しんでほしいと思います。

なぜって、その方が書き手はうれしいのですから。



そのKaoRu IsjDhaさんの作品を手に取れる文フリブースは、こちらですぞ!
つるるとき子書店! おおおお!

行くのだぞ。


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