草薙の剣 読書感想文


草薙の剣 橋本治



 バイクで走り疲れた夜、幹線道路の脇で休憩する。目の前を通りすぎていく車のブレーキランプを眺めて、あの車はどこへいくんだろう、とぼんやりしている。
 あのトラックは、あのバスは、これから高速道路へ乗るのだろうか、原付は仕事の帰りだろうか、遠い県外ナンバーの車は最近引っ越してきたのかもしれない……。

 しばらく道路を眺めていると、そのまま突っ立っているのにも飽きてくる。そうして「自分は一歩も進んでいないな」と感じる。

 外の世界を眺めて、自分が目に見える現実の世界に生きていることはわかっても、その観察によって世界の構造を理解したわけでもなく、その時間を過ごした経験で自分が新しい何かを理解したわけでもなく、ただそこにいて自分の外の世界をぼんやり眺めている。

 外の世界を眺めるというのは時間の流れそのものの体験であって、外の世界が外の世界なりに動いているな、と知るに過ぎない。知るに「過ぎない」と言ったのは、ぼんやり外の世界の時間の流れを追っているだけでは自分の内側で何が起こっているか、自分の心の動きがどうなっているのかに思い至らないからである。

 人生は、自分を知ろうとするにはあまりに短い。そして外の世界ではあまりに多くのことが起こり過ぎている。あまりに多くのことが起こり過ぎているから、人は自分の周りのもの、手の届くものにしか興味を示さない。そうやって情報を選り好みすることで、やっと外の世界とのバランスがとれるのだろう。

 こう書くと自分という確固たる存在があって、自分という存在を「内側」に見立てて、内側ではないと思われる事象を「外側」と区分するやり方を想像するけれども、自分と世界との境目がどこなのか、わたしにはよくわからない。

 夕焼けをみて自分の気持ちが安らぐのであれば、夕焼けは自分の心と何かしらの関係があるに違いなく、その一方で心そのものは見ることがかなわず心と夕焼けとの関係も具体的に見えない以上、夕焼けが自分の外側にある、と決めつけることには少々抵抗がある。「自分の肉体の外側にある」のが事実ではあっても、心理的な距離がどうなっているのか、そこにあるのが距離なのかどうかすらわからない。心が自分の内側にあるという暗黙の前提すら怪しい。自分の心や感覚は実は自分の外側にあって、自分はその感覚の受信機に過ぎないのではないか。

 そこまでは考え過ぎだとしても、少なくともひとりの人間はその時代の空気の受信機だといって差し支えないように思う。



 草薙の剣。

 場所は日本に実在するであろうどこかである。際立った個性のない、いわば凡庸な男性が6人出てくる。歳はそれぞれ10歳違いであって、それぞれの登場人物が生きた時代を描写し、彼らの生活のdetailが淡々と綴られていく。
 その描写は登場人物の輪郭をはっきりさせるものではなく、彼らからみた外の世界を文章に写しとったものである。10歳ちがいの登場人物を時代の古い順に6人登場させて、彼らひとりひとりからみた世界を文章としてつなげた形になっている。
 それはいかにもとりとめのない場面の連なりで、何も起こらない日常を忍耐強く描写し続けているようにも思える。読み手にとって何も起こらない日常とは何か。
 取るに足らない日々の生活。描写する意味すらわからないような。 

 いつの時代であっても、特筆すべきことのない日々の生活がそこここで展開されていて、その一方で世の中は個々人の活動の総体なのだから、世の中の流れとは数えきれない凡庸さが時間のベクトルに沿って流れていく不可逆的な運動と見做せる。
 その不可逆的な運動は、凡庸の集まりであるがゆえに人の注意をひかない。しかし橋本治はその流れをみて足を止める。きっと「こんなに流れてんのになァ」と思って。「だれも気にしないんだもん。俺が書くしかないじゃん」と思って。音もなく流れていく時間から彼の両手で掬えるくらいのことを書き留めると、草薙の剣という小説になった。

 橋本治が書く小説。

魅力のない嘘つきは小説の主人公にならない。
……
つまりね、それぐらい小説というのは立派●●なんですよ。ヤな奴を主人公にしたとしても、主人公になるってことは、そのヤな奴の中にどっかいいところがあるんですよ。いいことが発見できない主人公っていうのは主人公になれないんですよ。

橋本治と内田樹


 「草薙の剣」には、際立った個性のない、いわば凡庸な男性が6人出てくる。少なくとも彼らは嘘つきではない。橋本治が彼らに「どっかいいところ」があると思ってものがたりの軸に据えたのだとして、その期待を頭の片隅に置いたまま読み進めていくと、このものがたりのなかでは何も起きないのである。
 6人それぞれが生きた時代におけるテンプレートめいた家庭の、それなりのごたごたが、時代に沿って書かれている。言ってみればそれだけの話である。文庫本にして400頁とちょっと。読み手が、自分や親の世代が見聞きしてきたことが羅列されている。

 「そういえばそういうこともあったな」と振り返る事件や事実が世の中にはあって、多くの場合、自分の生活はそのイベントとは無縁に過ぎてきた。
 かつてインパクトのあった事件は、その時の自分の家庭内あるいは社会的な境遇とともに思い出されるもので、世の中の流れなんてカンケーない凡庸な人間にとっては何気なく撮られたスナップ写真のようなものである。凡庸な人間は時代に楔を打つような事件とは無縁で、一見何にも影響されないかのようにみえるのだが、流れていく自分の人生には翻弄される。翻弄されるのは自分に主体性がないからで、主体性のなさはその時に見える周りの状況に反射的に反応して判断するところから生じる。
 じゃあそういうやり方が悪いのかというと、人間が時間を過ごしていくのに"正解"なんてなく、そのときそのときに何気なく判断して、何気なくその選択肢の枝葉の向こう側へ行くのだから、それを悪いというのはちょっと違う。人間は、自分はこうなりたい(あるいは、こうありたい)という主体性がなくてもその時々で「あっち」とか「こっち」と判断し続けて生きているともいえる。
 ものがたりに出てくる6人の男性はそういった主体性のなさからか、それぞれ輪郭が明確でないだけでなく、それぞれに閉塞感やわだかまり、思うようにならないもどかしさを抱えている。

 橋本治が書きたかったのは「時代の閉塞感」みたいな平べったい現象だったのか。昔は良かったかというとそうでもない(そして現代も)、というシニカルなメッセージを提示したかったのか。彼のインタビューをみて腑に落ちるところがあった。

「最初は自分にとっての『草薙の剣』を日本の男たちは失ったんだ、というつもりでタイトルを付けたんですよ」

産経新聞インタビューより

 「最初は」ということは、途中で考えが変わったことを示す。そういえば橋本治はこうも言っていた。もういちど確認してみよう。

いいことが発見できない主人公っていうのは主人公になれないんですよ。

 6人のなにものでもない男性。いいところがあるんだとしたら、話の中でそれが全然出てこなかったじゃないか。わたしはそう思って、もう少し考える。

 小説の登場人物は、作品中で作者には変えられない人生の一本道を生きている。作者はそれをそのまま書かざるを得ない。そうなると、彼らにいいところがあってもたまたま表に出ないだけだったのかもしれない。
 可能性を発揮しない場面だけしかないのなら、ものがたりの登場人物を凡庸であるとか平凡であると決めつける考え方もあるけれども、いいところが表に出てその人の能力を発揮する可能性は誰にでもあるのだ、と言っておかなければ人を描いたことにならない。
 橋本治はそう思ったのではないか。

 400頁にわたって「書かれなかったこと」を想像すると、橋本治の人間に対するスタンスが少し見えるような気がした。そして、ものごとを変えようとするには時間がかかるのだ、ということも。



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