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note

 よくわからぬうちに、noteで2年経った。ヘッダー画像はかぼちゃである。かぼちゃが、何かにこにこして喜んでおる。かぼちゃがなぜ喜んでいるのか理由は判らぬ。つやがいいからなのか、身が詰まっているからか、高値で買い取ってもらえたからか、ハロウィン用に中身をくり抜かれずに済んで安堵しておるのか、ただ隣に自分と同じ大きさのものがあったからなのか、想像するしかない。いずれにせよ、喜ぶことがあるのは、良い。

 世の中は、よくわからないことばかりである。よくわからないのは、自分には理屈が把握できないからかもしれないし、物事が直感の外側にあって思いもよらぬ要因で前に進むからかもしれない。

 そういうよくわからない、心の準備ができていないままでいろいろなことが起きて、今の状態になっている。noteに迷い込んだ当初、どこの誰とも知れぬわたしが人と交流する状態に至ったとしても、文字のやりとり以上のことは無いだろうと思っていた。

 今でも覚えているけれども、投稿を知って、その上で本人の肉声を知って、オンラインでカメラ越しに会い、実際に待ち合わせをする、というのは、いわば0次元から1次元、2次元、そして3次元の相手と会うステップを踏むようなもので、新鮮な驚きがあると教えてもらったことがある。その話をうかがったときは「そりゃ質の高い投稿をされる方々は、そういうこともあるだろうなぁ」と、天上界のやりとりを想像するような気持ちであった。

 それがいつの間にか、記事のやりとり、音声配信でのやりとり、三次元でお会いすることまで全部やっている。ひとつのきっかけは「いまやっておいたほうがいいこと」のような感覚があったからで、そういう考えがなぜでてきたのかはやっぱりよくわからない。会うことになるんじゃないか、という方とお会いしている気がする(これからも、自分のそういう感覚が間違っていないことを我が身で証明し続ける気がする)。

 当たり前のことだけれども、お会いしたのはnoteに迷い込まなければご縁のなかった方ばかりで、現実生活の社会人としての利害関係とはまったく無縁の方々ばかりである。この人とつながってたら次の仕事が楽だな、とか、向こうの会社に少し顔が売れるからもう少し仲良くしておこうかな、とか、あるいはnoteの世界で繫がれば現実世界にもメリットがあるぞ、とか、そういう打算的なものとまったく無縁なのである。どうして今のいろんな方との関係ができてきたのか振り返ってみても、そこに一貫した理屈はないし、うまく説明できる気もしない。どうやら、結果的にそうなったのだ。

 一方でこういうことは全く科学的だ、とも感じる。たとえば、疎水的なものは疎水的なもの同士で集まる。親水的な物質は親水的な物質どうしで集まる。そこからすると、思うこと、感じること、考えることのベクトルが似ているであろう方々のコミュニティに属している、という言い方ができそうだ。それはそれとして、そういう小理屈をこねたところで「だから何だ」という程度のことであって、やっぱり根本のところはよくわからないのである。

 現実の業務の中の人間関係だけではつまらない毎日になりそうだし、そうこうしているうちに休日も平日のような薄っぺらい話ばかりしてしまう出来の悪い老人になる気がして、それが恐ろしかったのは本音である。


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