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セレンディピティとAI

“セレンディピティ”は「偶然の幸運な出会い」という意味合いで使われることが多いようです。

しかし同じ偶然の出会いでも、大半の人はその価値に気づかず見過ごしてしまいます。一方、セレンディピティが世紀の大発見につながる例もよく聞きます。(ニュートンの万有引力、フレミングのペニシリン、クリックワトソンのDNA二重らせんモデル、など多数)

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「見過ごし」か「発見」か、その二つを分かつ違いこそが重要で、それは「差異や違和感を感知する力」、「その力を準備するだけの長く深いこだわりや思考の時間」、そして「旺盛な好奇心・探求心」。

そう考えると実はセレンディピティこそ、選ばれし人にのみ訪れる、偶然に見える必然、ともいえるのではないでしょうか。(実際、発見というものは、繰り返し同じ人に、起こるものらしいです)

「チャンスの女神は前髪しか見せず」×「天は自ら助くる者を助く」。

訪れた瞬間に感知しきる能力。決して周囲の演出によっては作り出せない、その人の内面に依拠する出会い。それは賢さのひとつの表れ

偶然性があるとするとそれは、ちょうど良いときにちょうど良く出会うという点ですね。ちょうど良い、これは外的状況だけでなく内的コンテクスト、つまり心の余裕度のようなものも含むでしょう。その意味では、確率をあげるには、心に余裕があり、そしていろんな場に顔を出すという行動と切り離せないのかもしれません。

いわば世の中との向き合い方に依存することになります。

知の巨人、外山滋比古先生も、セレンディピティを、「探し続け、探しているものではない、思いがけないことを発見する能力のこと」と書かれています。

つまりセレンディピティの前提は「探し求めること」

#”賢さ”は英語で "Sagacity"。この語の発音が、”探して” と聞こえるのはセレンディピティでしょうか?いいえ、ただの偶然です。

こうしてみると、セレンディピティはある程度は訓練できるもの、つまり教育の対象なのではないでしょうか?

セレンディピティを技術で創り出す、あるいは人がチャンスをつかむ機会を増やすサポートを。

それが人を豊かにするAIの一つの在り方だと思うわけです。

「発見とは、誰もが見ていることを見て、誰も考えなかったことを考えることである」アルバート・セント-ジェルジ

※「セレンディピティ」は、セレンディップ(スリランカ:旧セイロン)の3王子が「偶然と洞察力によって、探してもいないことをいつも発見し続けた」ということから生まれた単語とのこと:

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※「乱読のセレンディピティー」 外山滋比古 

~科学的発見で多く見られるセレンディピティが、どうしたら人文系で起こせるか、乱読によってである、と書かれています。乱読によってタコつぼから出る、という効用だけでなく、ことばより早く読むことによって、ことばの残像がオリジナリティの場となる可能性があるということでしょうか。

「風のように早く読め」 外山滋比古

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