【小説】「ヒーリング•サークル」第6章 再診
「最近、薬ちゃんと飲んでるの?」
とスーツに着替えながら、陽司が聞いてきた。私の顔色が悪いからだろう。陽司は家から職場が近いので、家を出るのは比較的ゆっくりだ。私の方はもう、すぐに車に飛び乗っても始業時間に間に合わない時間だった。
問いには答えずにリビングを出て、玄関を開けた。一月、容赦のない寒さに、体がぐっと縮こまる。結局、体調は回復しないまま、年が明けた。年末にお節料理は一品も作れなくて、義母が作ったものを、かろうじてこしらえたお雑煮と一緒に食べてお正月を過ごした。遅刻は相変わらず多く、頭が回らなくて仕事も進まない。そして休日出勤する。完全な悪循環が続いていた。陽司はずっと何か言いたげで、薬を捨てたのはバレていないはずだったが、食後すぐの薬を目の前で飲んでいないから、怪しまれるのも当たり前だった。薬を捨てた直後の三日は夜も眠れたけれど、また眠れなくなった。気分の落ち込みは常時ある。少し体を動かすのも億劫なくらい、怠かった。
その日の帰り、久しぶりにカフェに寄った。以前夏実さんと遭遇した店だ。店内に入ると、奥のテーブルで夏実さんが一人座っているのが見えた。カウンターでコーヒーを受け取って、少し迷ったけれど声をかけた。
「あら、お疲れ様。」
そう言って夏実さんはニコッと私に顔を向けて微笑んだ。
「よかったら、一緒にどう?」
と誘われて、はい、と私は向かいの椅子に座った。前回彼女に言われたことが少し気になったけれど、断るのも角がたつので素直に従った。
「最近体調はどう?」
と、優しそうな瞳で夏実さんは聞いてくれた。気遣ってもらったことにぱっと嬉しくなって、私は答えた。
「あんまり、良くならなくて。エリさんのサロンに行った後は、しばらく調子が良くなるんですけど。仕事もうまく進まないし…。山内さんからの風当たりも相変わらずきついです。」
山内さんと言うのは、折り合いの悪い同じ課の先輩の名だった。
「ああ、体調が悪いからって遅刻したり仕事が遅れたりする人のこと、嫌いなんじゃないの?」
ケラケラ笑いながら、目を細めて夏実さんは言った。ひゅっと喉が鳴るような気がした。言われたことが、一瞬信じられず、固まってしまう。夏実さんは何事もなかったかのように続けた。
「よかったら、お話会に来てみない?二月の枠が一人空いてるの。気持ちが楽になると思うよ。」
そう言って、彼女は以前くれたものと同じチラシを再び私に手渡した。後は、夏美さんの課の、夏実さんと仲の悪い女性の先輩の話に移った。彼女がペラペラといかにその先輩が意地悪かを話すのを聞きながら、さっき言われたことが頭の中をぐるぐる回って離れなかった。
帰宅して、陽司と夕飯を食べている時に、本当はお薬飲んでないんだ、と伝えた。
「そうだと思ったよ。」
と彼は言い、でも私を責めなかった。呆れているのかもしれない。
「次の土曜、また一緒に病院行こうか。」
陽司はそう言ってくれた。また、お薬をもらって飲もう。飲まなければ無理だ、と私も悟っていた。今日は水曜で、まだ後二日ある。一人で病院に行く体力も気力もないから、あと二日出勤を頑張ろう。そう思って、少し気持ちは楽になった。
翌日、出勤して自分のデスクに着くとすぐに、課長がやってきて言った。
「君が仕事を頼んでいるデザイナーの加藤さん、昨日の夜倒れて病院に運ばれたらしいぞ。」
聞いて、愕然とする。加藤さんはフリーのデザイナーで、急ぎかつ重要な仕事を頼んでいた。
「加藤さんにはうちの課から他の仕事も頼んでいるし、午後に会議をすることになったから君も出るように。」
そう言って課長は忙しそうに自分のデスクに戻っていった。
しばらくぼんやりして、次は強い不安に襲われる。体調不良でギリギリのスケージュールで仕事を回す中で、加藤さんにも無理を言ったと思う。自分が悪いのかな、という考えが出始めた。私がすみません急ぎでお願いします、と言ったから。起こることは全て鏡なのよ、という夏実さんの言葉を思い出す。私が急かしたから、加藤さんは倒れたのかもしれない。人の良さそうな加藤さんに漬け込んで甘えて、私が病気にしたんだ。
胸のあたりがぎゅうっと収縮するような感覚があった。実際に音がしているのではないかと言うぐらい、心臓がどきどきし始める。立っていられなくなり、デスクの前にうずくまった。どうしたの、と隣の事務員さんの声がする。顔を上げて返事をすることができない。目が開けられない。意識が遠のいて、頭の中が白い霧に覆われていった。
しばらく休養室に寝かせられ、意識を取り戻してから早退して迎えにきてくれた陽司と一緒に、クリニックに向かった。
「休職するかい?」
と、医師は言った。私はそれにどう答えていいのかわからず、また沈黙してしまう。陽司は心配そうに私の顔を見ている。
「本当は、自分でももう休むしかないと、感じているのではないですか。」
そう言って医師も私の顔を見た。優しい瞳だった。
「はい。休みます。もう、無理だと思います。」
答えると、涙がこぼれた。もうこれ以上頑張ることはできない。本当はもうずっと前から、限界だったのだ。
医師はすぐに診断書を書いてくれた。そのまま会社に診断書を提出しにいって、休職が決まった。一ヶ月、私には休む時間が与えられたのだった。
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