見出し画像

「勉強」と「学び」は違うの?(1)

こんにちは!GIFT SCHOOLのカリキュラムデザインと教師教育デザインを担当しています、桐田敬介と申します。


専門は芸術教育の哲学で、上智大にて学習指導要領の作成に携わっている方々のもとで学び、日本各地の幼稚園や小学校を巡りながら、子どもたちの創造的な学びや民主的な感度の育ちを研究しています。


個人事業としても哲学教育のワークショップを実施したり、学校の先生向けに探究型のカリキュラム構築や授業研究のサポートをしたりしているうちにGIFTファウンダーのお2人と出会い、意気投合してジョインしました。


今週から、僕なりの視点で新しい教育に関心のある保護者の方向けに、学びや育ち、子どもとの接し方、さまざまな教育の事例などについてのtips集を執筆していきます。家事の合間や、お仕事の合間にお付き合いいただけますと幸いです。


<勉強と学びのジレンマ?>

画像2

初回のテーマは、ズバリ「勉強と学びの違い」について。

みなさんは「勉強」というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。たとえば、机の前に向かってガリガリ鉛筆を走らせている子は「勉強をしている子」で、先生の問いかけに「はいっ!」と手をあげてスラスラ答えられる子は「勉強ができる子」、というようなイメージがあるかなと思います。


対して「学び」となると、意外に広いイメージがあるかもしれません。たとえば恋をしても、友達とケンカをしたとしても、何かそこから得られたものというイメージ。または、旅をしながら、旅の仕方だけでなく自分の人生にとって大事なことを学んでいったというように、(気づいたら)何か必要なもの得ていたというようなイメージがあるかもしれません。


なぜこの違いについて最初に考えたいかというと、子どもたちへの教育について考えるときによく出てくる問題として、以下のようなジレンマがあるように思うからです。


たとえば、子どもたちにはたくさんの得難い「学び」をして欲しいけれど、その学びを得るためにも必要な「勉強」はあるのだから、いまは興味がなかったりその意味が理解できなかったとしても、まずは学校の「勉強」を頑張って欲しい。でも子どもたちは半ば強制的に勉強させようとすると反抗的になったり、抵抗したり、あるいは逃避してしまう。


このジレンマを解くことは、ケースごとにさまざまな要因があるため、特定の手法や理念を採用すれば解決するようなものではないと思います。けれど、なぜこのジレンマが生じてしまうのかを考えてみることはできるかもしれません。そこで、こうした勉強や学びのイメージを、今回のGIFTだよりでは二週に渡り、学問の言葉に(専門的には、学習科学という分野の言葉に)変換して、その違いを明らかにしてみたいと思います。

〈キソ中のキソの子ども観 〜子どもは知識をすでにもっている?〜〉

と、その前に。学問の言葉を使う大前提として、いまの教育学や心理学のなかで共有されている「子ども観」(子どもとはどんな存在かという捉え方)について紹介し、以降の話の前提となる考え方を共有したいので、ちょっと寄り道をさせてください。教育のあり方をガラリと変えた、とある偉大な心理学者の「子ども観」をご紹介したいのです。

ピアジェ


さてその偉大な心理学者とは、スイスの発達心理学者ジャン・ピアジェのことです。彼は、自分の子どもたちの成長を幼児期から丹念に記録し続け、「発達段階」という概念を見つけ出しました。この言葉はよくニュースやネット記事でも紹介されているので、聞いたことがあるという方もいらっしゃるかもしれませんね。


ただ、しばしばそうした紹介で見落とされていることは、ピアジェが「子どもは大人より知識が少ない(劣っている)存在だ」というそれまで当たり前だとされていた見方を、「子どもは大人とは質の違う知識をすでに持っていて、さらに自ら知識を編み変えることができる存在だ」という斬新な見方へと変えた人だということです。


言い換えれば、幼い人間は身体的に成長した人間と比べて劣っている段階にいる存在なのではなく、誰もが生まれた時からすでに多くの知識を一人ひとり自らつくり上げていて、その知識の質が成長とともにそれぞれのペースで変化していく存在なんだ! ということを発見したのでした。


この発見によって、教育の捉え方も大きく変化していきました。たとえるなら、大人に比べれば何も知らない「白紙」の子どもたちに、一言一句精確に大人が知識を注ぎ込み、その子が大人になったらまた同じ知識を一言一句精確に注ぎ込む、いわば知識の「精確な伝達」こそが教育だと思われていたのに対して、


子どもも大人も、家庭や街や社会に触れるなかですでに自らつくり上げているさまざまな質の違う知識があるのだから、互いにその多様な知識を持ち寄りながら、同世代や異年齢、世代を越えてともに試行錯誤して新たな知識を作りあげていく、いわば知識の「共同制作」が教育の望ましいあり方として捉え返されていきました。


勘の良い読者の方は気づかれたと思われますが、教育を「伝達」とみるか「共同制作」とみるかというこの観点の違いが、よく世間でも取りざたされる、学校で必要なことは「勉強」だと考えるか「学び」だと考えるかの違いを引き起こしているんじゃないか、と僕は考えています。そこで以下ではもう少し詳しくこの対比について、具体例を用いて考えてみたいと思います。


<子どもたちがつくりあげる知識 〜具体から抽象へ〜>

画像2

さて、ピアジェによれば子どもたちは知識をすでに持っていて、ともに作り変えていくことができる存在だということでした。では、実際に子どもたちはどんな知識を持っていて、どんな風に作り変えることができるのでしょう? 具体例を通して、ご紹介してみたいと思います。


たとえばピアジェ以降の研究の進展によって、小学校低学年から高学年程度までの子どもたちは、抽象的な記号を操作するための概念的な知識(法則や公式など)を持っていなくとも、具体的で感覚的なイメージを操作するための知識や手続きはたくさん持っていて、それを編み変えたり、新たに編み出したりしていくことができることが知られています。(専門的には、具体的操作期、と呼ばれます)


その例として、エピソードを一つご紹介させてください。僕自身が小学校で実施したアートワークショップでのことなのですが、新聞紙や折り紙をたくさん使って、教室を「リフォーム」してみたい子を募集してみました。


冒頭で僕はいくつか海外の学校のおもしろいデザインや、クリストという建築物などを布で包む著名現代アーティストの作品を紹介したあと、新聞紙や折り紙でできる操作のレパートリー(新聞紙は細く長く折り返して切れば、ヒモのようになる!など)をいくつか伝えたまでで、「こういうものをつくりましょう」とは伝えていません。


そんななかで子どもたちは、どんなものをつくりだしていったでしょう? 結果から言えば、子どもたちは手元のモノに働きかけることを通じて頭の中でひらめいたイメージを、個別に、また共同的に制作し、それぞれ全く違う作品を作り上げていきました。いくつかご紹介すると、


ある男の子は正方形の折り紙をそのまま「ドット絵」にみたてることで、さまざまなグラデーションの青い折り紙を貼り合わせてできた「池」や、緑や黄緑のグラデーションを利用して「森」、赤やオレンジ、黄色の折り紙を利用して「溶岩」を作り出していきました。これはその子のなかにすでに(おそらくゲームなどを通じて)「ドット絵の表現」に関する知識があり、それを教室のリフォームという造形的な問題に即して活性化させた例だと言えるでしょう。


またある女の子たちは相談しながら、新聞紙を何枚も重ねて丸め強度を持たせることで「椅子」や「机」を作った子もいれば、その教室の天井にあったエアコンの前に紐状に切った新聞紙を吊り下げ、その新聞紙の上に細かく切った金色、ピンク色の折り紙を貼りつけることで、「風鈴」よろしくエアコンの風でゆらゆら揺れきらきらひかるオブジェを作り出した子もいました。これはその子たちの間で作りたいオブジェのイメージを共有するだけでなく、ヒモにした新聞紙をどのように飾れば効果的かを発想する、イメージ操作の力を協同的に発揮させた例だと言えるでしょう。


こうしたアート系のワークショップや、プログラム系のワークショップ、公園での遊びを観察しているとよく見えてくることは、子どもたちはものをつくるレパートリーをすでに身につけており、その時々で自分なりの好みのやり方に編み変えるだけでなく、しばしば一緒につくりかえることができもするということです。


その素材や遊びに合わせた知識や技能を自ら作り出し、自分なりのレパートリーを生み出すだけでなく、自らより面白い作り方、よりステキな表現を創造する探究心が発揮されていくさまは、まさに創造的な学びといえるものと思います。


ここまで読んできて、一部の読者の方は「なんだ、子どもたちがすでに持っているのは単なるお遊び、ひいき目に見ても、ものづくりの知識じゃないか」と思われるかもしれませんね。ですがじつは、私たち大人が一見当たり前に持っているように思える抽象的で形式的な知識も、こうした子ども時代の、自分の手を動かしてモノに働きかけ、頭の中で具体的で感覚的な「イメージ」を処理していく経験、すなわち遊びに基づいて獲得されていくことがわかっています。


たとえば、幾何学的な図形のイメージを頭の中で想像しながら動かしてみたり、モノを変形させたり条件を変えたりする科学的な実験の手続きのイメージを構想したり、一つの言葉やイメージが持ちうるさまざまな意味を感じとったりするためには、この具体的で感覚的な「イメージ」(専門的には、表象)とそのイメージを変化させる「手続き」の処理にたっぷりと習熟している必要があるためです。


事実、数学教育者であり発達心理学者でもあり、生前ピアジェが「私の考えをもっともよく理解する人物」と評した、MITの故シーモア・パパート教授──プログラム教育でよく使われている「レゴ マインドストーム」の名前のもとになった著作『Mindstorm』の著者!──も、子どもの頃に車をさまざまな部品に分解してその仕組みを遊びながら親しんでいた「歯車」に関する記憶が、学校で習った数学の一次関数の知識とじかに紐づいた瞬間、数学がより深く理解できるようになったと振り返っています *1。


1986年に、PCが家庭や学校をつなぐ子どもたちの学びの道具になる未来について語るシーモア・パパート教授の映像。彼が開発に携わったレゴロゴを通じて子どもたちがプログラミングについて試行錯誤している様子を映しながら、科学的、数学的な知識も、学齢前の小さな子どもたちがおもちゃで遊ぶパッションと切り離されてあるようなものではない、と語られています。

これまでご紹介したことをまとめると、ピアジェが発見したこととは、子どもたちは具体的で感覚的なイメージの操作に使える(=活性化できる)知識を、すでに遊びなどを通じてたくさん持っているということ。


そして、そうしたイメージを手元のモノに働きかけながら頭の中で処理していく経験を通じて、私たち大人が持つような抽象的で形式的な知識を身につけていくという人間の知的発達のプロセスであり、それに基づいた新たな「子ども観」でした。


次週に、この子ども観に基づいて発展していった「二つの教育観」を紹介することを通して、勉強と学びの違いについてより詳しく考えていきたいと思います。ひとまずここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

***

GIFTでは子どもたちの一生を支えていく学びをみなさんとデザインするために、教育のあり方について考える上映会(2月5日は"Most Likely to Succeed"を上映しての対話会を実施します)や、大人向けのワークショップなど開催していく予定です。今年4月の開校に向けて、学校説明会も毎月開催しております(2月は16日[日]13:00-16:00を予定しています)。

ぜひ、ご関心ある方はお越しください! 


*1 実際には、幼い頃に親しんだ差動歯車の仕組みが、ある二変数の等式を理解するモデル(専門的には、メンタルモデル)として思い起こされた、と語られています。
参考文献
H. J. パーキンソン(2000)『誤りから学ぶ教育に向けて──20世紀教育理論の再解釈』勁草書房。
Ackermann, E. (2001). Piaget’s s Constructivism, Papert ’ s Constructionism: What’s the difference? Retrieved January 23, 2020, from https://learning.media.mit.edu/content/publications/EA.Piaget%20_%20Papert.pdf 
Papert, S. (1992). Preface: The Gears of My Childhood, in Mindstorm: Children, Computers, and Powerful Ideas Second Edition (xviii-xxi), New York:NY, Basic Books.
Sawyer, R. K.  (2006). Chapter 1: The New Science of Learning. in R.K. Sawyer (Ed.) The Cambridge Handbook of the Learning Sciences (pp.1-16). Cambridge:NY, Cambridge University Press.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?