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頭から離れない「診断」(3)


診断が出た時の受け止めパターンを考える

人との関係性についての問題は、ASD者に限らず生きていたら誰でも苦悩する部分でもあり、どこからがASDと絡めて考えたら良いのかということすら難しい。そのような中で、診断が出た時のいくつかのパターンを想像してみた。

『当事者研究の誕生』の中に出てきた言葉も借りながら考えてみたのが以下だ。相手との<間>の問題であるならば、当事者というのは一人ではないだろうと思ったが、分かりやすさを優先して診断を受ける側を「当事者」として記載している。

著者の場合は①②⑥、我が家の場合は過去に学校から精神科受診を勧められた際には学校としては⑧を期待していたのではないかと思う。しかし診断が⑤であったため、学校としては恐らく期待外れで⑩となり、しかし最終的に⑪に移行していった。同時に我が家は①も感じていた。

つい数ヶ月前に親子関係で悩んでいた際に言われた「診断があったら受け入れやすくなりますか」については、⑦が可能かと訊かれたことになるのだろう。親は時に当事者側であり、同時に周囲の人の立場にもなる。

⑪はうまく行きそうでも⑤を強行に主張しすぎると難しくなる気がしている。以下の合理的配慮にある様に、均衡を失した状態は持続可能ではない。

障害者の権利に関する条約第2条にある「合理的配慮」の定義中、「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」の「負担」の解釈について、 外務省に照会したところ、以下の回答があった。 条約第2条において、「「合理的配慮」とは、障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」 というところの「負担」は、一義的には、「変更及び調整」を行う主体に課される負担を指すものと解されます。
合理的配慮について

p.1

個人的には環境調整には賛成であり、必須と考えている。書字や聞こえの困り感にはテクノロジーを、標準教育の困り感には個にあった課題を、食物アレルギーには食事を個別対応しなくてはならない。

一方で、生き方や物事の解釈の相違については、自分が多数派かどうかも判然としない中で、相手が特性があるらしいとなると、どう接するのが良いのか自分なりに試行錯誤し、それこそ疲弊もした。それでもまだ抜け出せない中で、相手にも少なからず協力を求めないと共倒れするのではないかと感じていた。しかしそれを求めることは罪であるようにも思って途方に暮れていたのだった。

それが神経発達に関するものについては、無理強いではなく双方歩み寄ることを当事者も提案しておられると知ったときは安堵したのだった。⑫として新に加えたい。⑫があることで、⑪もより実行しやすくなると思われる。

個人と社会の双方の認識が変化し、お互いに対して無理強いをせずに歩み寄ることで、社会と個人の間に生じる「障害」が、だんだん小さくなっていくのではないかと綾屋は考えたのである。

『当事者研究の誕生』(p.287-288)

なお④⑨は社会モデルでも発生し得るが省略した。

「統合モデル」ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health, 国際生活機能分類)

『当事者研究の誕生』では歩み寄りについて書かれていたわけだが、その部分に行きつくまでに、「医学モデル」と「社会モデル」の2つだけでは責任の押し付け合いのように思えたこともあり、もう少し違った考え方もないだろうかと探していた。すると「統合モデル」というものがあった。

ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-

ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-(p.6)
ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-(p.7)
ICF(国際生活機能分類) -「生きることの全体像」についての「共通言語」-(p.8)

因果関係と解決のキーポイントは別という所が、どこに・誰に問題が有るかというテーマに言及せずとも解決できそうで理想と思ったのだが、このICFについても次に見るように課題が指摘されている。

ICFの課題として,【医学モデルに依拠した障害観】 【社会変容の視点が希薄】 【内的経験から生じる参加制約の視点が希薄】が挙げられた.ICFは,社会からの否定性が活動・参加の制約になる点を表しにくいことが明らかになった.
「障害の社会モデル」の視座から捉えた ICFの課題と作業療法における社会参加の支援についての一考察

p.6

以下は、社会モデルについて書かれている。

障害の社会モデルは,障害のある人々から考えられたモデルで,障害は個人の問題・責任ではなく,障害のある人が不自由なく社会参加する上で必要な配慮を社会が提供しないため,社会がその不利益の解消の責任を負っている4)とされ,医学モデルを批判する.障害の社会モデルでは,インペアメントの重要性は否定しないが,それ以上に構築された社会的障壁の方に主要な関心を寄せる5).それゆえ,ディスアビリティは「社会的に作られたもの」とみなされ,個人が被る制約ではなく,社会の側こそ「問題」5)と定めている. この障害の社会モデルは,イギリスとアメリカで社会的抑圧の意味の捉え方が異なっている. イギリスでは資本主義社会がインペアメントのある人の障害を生み出す根源と捉えているが, アメリカでは社会的相互作用の中で排除や隔離がもたらされ,万人に保障される自由や権利が障害のある人には保障されていない6)と捉えている.アメリカの障害の社会モデルは,機能障害と環境との相互作用を位置づけ,強調する点で ICFと同じ相互作用モデルであり6),ICFはアメリカの障害の社会モデルを採用している7). しかし,相互作用は結果的に個人への働きかけに偏重する点が指摘され6),ICFも障害を個人レベルでとらえる医学モデルである8,9)と批判される.こうした指摘や批判を鑑みると,ICF には社会参加を支援するための障害の社会モデルの視点が希薄ではないかと考えた.
「障害の社会モデル」の視座から捉えた ICFの課題と作業療法における社会参加の支援についての一考察

p.2

改めて「診断」について

「診断」をどう受け止めるかは、この「医学モデル」と「社会モデル」のどちらを採用しているかによっても変わってくるものと思った。また上記を踏まえると、当事者にとっては、「社会モデル」によって障壁が解消されたとしても、社会の側こそ「問題」という考え方が定着しない限り、実質的には医学モデルと同じであり真の納得感は得られないのではないかと感じられたりもした。この辺りは当事者の間でも人に寄るのかもしれない。

ギフテッドについて普段書いているが、こちらは相対的には「社会モデル」が最初から適用されやすいかもしれないと思う。しかし、それであるからこそ反感を買いやすい側面もあると思っている。

さらに、2Eでなければインペアメントが語られることもない。当事者の感覚体験と一致するかは別としてそれはギフトと形容される。ただし日常的な困り感は強く、社会参加の不利益は被る。しかしインペアメントが議題とならない以上、ギフテッドは医師が診断する必要もなく、診断がないということは社会的不利益に対して手当があるわけでもない。

長男についても人との間で利害対立が時々発生する。これをどう捉えるかというのは難しい。ASD当事者は<生き方>として捉えているとある。それであれば長男は意志を持って従わない等、それを生き方としている。選択の上での生き方なら診断が入る余地はないだろう。

ギフテッドを公言しておられる吉沢さんは、診断に納得がいかず、自分で自分の取り扱い説明書を作ったとおっしゃっていた。当事者研究と近いものを感じた。そして次の様に述べておられる。

私自身はみんなに自分を受け入れてほしいと願う立場なのに、自分自身は周囲を受け入れようとはしないというのは自分がありたい姿ではないんです。自分を拒む相手を恨みたくなる時もありましたが、優劣で考えたら終わりだと思っています。どちらが優秀とかではなく、それぞれに役割分担があるんだと思っています。

〈IQ150越えのギフテッド〉「社会に出てから地獄の始まりだった」麻布中学出身の男性(37)が語る、3度の休職と周囲から言われた言葉

誰一人として同じ生き方をしていない中で、私自身は、常に長男に対して相手の立場に立って考えることや、ギブアンドテイクの必要性も説いてきた。自分が被害者で、相手が加害者という発想を持って生きてほしくないとも思っている。

「なぜ」問題となってしまうのかの根本的な部分については定期的に考えてしまうが、最近は長男の特性にばかり目を向けず、反抗期や思春期、また生き方としても考えなくてはいけないだろうと家庭内では話している。ただ切り分けは本当に難しい。

医学的診断や障害のとらえ方の絶対的な正解はなく、現段階ではいくぶん便宜的なものである。また、診断基準は縛られるためにあるのではなく、利用するために存在しているものであると筆者は信じている。診断は単なるラベルであってはいけない。共通理解のためのキーワードである必要があり、本人・家族・関係者全てにとって診断することが利益になることが期待される。
医学的見方から― ASD の診断基準

p.4

絶対的な正解を探そうとすることや切り分けからは離れ、意志を持った<生き方>と捉えた時、お互いを尊重し合える状況が理想だと思う。ベジタリアンとそうでない人が一緒にテーブルについても、それぞれに合ったメニューが選択でき、どちらかを強要することなく、どちらも困らず、そして食事が一緒に楽しめる状況が理想だ。ただ<生き方>を突き詰めると宗教にまで発展し、そうなるとなかなか分かり合うというのも難しいかもしれない。

以下参考になった箇所。

ASD の診断基準 ― 留意点
カットオフライン

…では,ASDの正確な診断とはいかになされるべきかという問題になるが、境界領域ではDSM-5 を用いても事実上不可能ということになる。

ASD をどのようにとらえるか?
③ ASD の症状とは?
ASDは多くの精神疾患同様、本態が不明であり、心身機能の損傷に関しても神経心理学的な水準の損傷が想定されているが、明確な知見は極めて乏しく、結果、DSM-5の診断基準に記載された7つの症状(symptom)は行動の水準に依拠せざるを得ず…このように、疾患としての本態が不明なまま、行動で症状を定義していることが、ASDの概念を複雑にしているようである。
医学的見方から― ASD の診断基準

p.2~

ギフテッドについても行動面から観察されることが多い気がしている。

もしもASDが ディスアビリティを表現した概念であるという本稿の見立てが正しいなら,ASDと診断される人々のインペアメントは異種混淆的なものになると予想される.事実ハッペ(Happé)らは,2006年に「自閉症に対する単一の説明を行うことをあきらめる時が来た(Time to give up on a single explanation for autism)」というタイトルの論文 を発表し,遺伝子に関する家族研究や双生児研究,神経画像研究に基づき,ASDの中核症状をすべて説明できる単一の遺伝子または神経解剖学的な根拠を探すのは無駄であると主張した[22].同じくバロン・コーエン(BaronCohen)らのグループもASDという広いラベルを使用して中核的特徴を同定しようという試みは,ASD内部の多様性の存在を乗り越えるものではないと主張している [23].したがって目的Iに取り組むうえでは,「ASDのインペアメントは何か」という問いを立てるのではなく,「ASDと診断されている○○さんのインペアメントは何か」という形で,一人一人に固有のインペアメントを探究の対象として措定しなくてはならない.
特集:地域の情報アクセシビリティ向上を目指して―「意思疎通が困難な人々」への支援―

自閉スペクトラム症の社会モデル的な支援に向けた情報保障のデザイン :当事者研究の視点から(p.535)

精神科医であり科学哲学者であるBerend Verhoef(以下、ヴェルホフ)は、自閉スペクトラム症の診断基準の中に、時代や文脈によって流動し続ける多様な「社会」なるものが組み込まれている以上、社会の投影としての自閉スペクトラム症の中身も多様性を持ち、揺れ動き続けるため、自閉スペクトラム症の本質的な原因なるものを見つけ出すことは、論理的に不可能であることを指摘している。

『当事者研究の誕生』(p.202)

自閉スペクトラム症とされる自分たちにとっていま必要なことは、自分自身について探求する「当事者研究」に加えて、自分たちを排除した多数派社会のルールや仕組みは、そもそもどのようになっているのか、についての知識を得ることだと考えるに至った。つまり多数派の身体同士が無自覚に作り上げている相互作用のパターンも探求するということである。これを「ソーシャル・マジョリティ(社会的多数派)研究」と名づけた。少数派にとっての生活環境である多数派社会の特徴を知ることで初めて、「社会の問題は社会に返す」作業が可能になり、自分の抱えている困りごとのすべてを自分のせいにしてしまうことなく、自分の特徴について具体的に当事者研究をしていくことができるようになるのだと、綾屋には思われたのである。

このように、「どこまでが個人的に変化可能で責任を引き受けられる範囲で、どこからが社会の問題として変化を求めるべき課題なのか」を公平に切り分けるためには、「当事者研究」と「ソーシャル・マジョリティ研究」というふたつのアプローチを両輪とするとする必要があるだろう。

こうして個人と社会の双方の認識が変化し、お互いに対して無理強いをせずに歩み寄ることで、社会と個人の間に生じる「障害」が、だんだん小さくなっていくのではないかと綾屋は考えたのである。

『当事者研究の誕生』(p.287-288)

社会に身を投じたその先々で出会う人々が、その場その場で臨機応変な配慮を施しあうことではないであろうか。それは必ずしも特定の「障害」に対する配慮ではなく、極めて簡単なことばにすると、「困っている人がいたら手を貸す」程度の、なんの変哲もないものである。 後ろに並ぶ人々に睨まれながらする買い物は生きづらい社会の象徴に感じるが、お金を出すことに苦労している高齢者がいても急かさず、知的障害の人が大きな声をだしていても、奇異な目をむけるのではなく、車いすの人が物理的障壁に阻まれていたら手を貸し、 ひきこもりは「甘えだ」などと罵るのではなくその背景を慮る。つまり、「障害の社会モデル」の究極の姿は、「思いやりの社会」ということではないであろうか。
「障害の社会モデル」と内なる障壁 ―予測する不幸より振り返る幸福を―

p.120

2023/9/12以下追加