生まれたての頃(4)
退院し、生後間もない長男と帰宅してみると、改めて我が家には赤ちゃんがいるのだなと感慨深いものがあった。
私の母も泊まり込みで手伝いに来てくれていた。わざわざ食材や調理器具まで宅配便で送ってくれて、かなり前から献立を考えたり色々と準備をしてくれていたことがわかった。我が家にあるものを適当に使ってもらえたらと思っていたけれど、それまで二人暮らしだった家庭の調味料や器具では足りなかっただろうことが今なら分る。箱を開けるととても部屋の中が賑やかになった。
母は一ヵ月泊まり込みをするに際して、実家に戻る父のためにも事前に一ヵ月分の料理を作ってストックしてきたようだった。大変だったと思う。本当に感謝しかない。
レトルトや外食をすれば良いではないかと思うことについては、珍しいのかもしれないが私が実家にいた頃からレトルトを使ったり外食をしたことがほとんどなかった。数年に一回あるかないかだったと思う。
思えば母は私が小さい頃から台所に立ちっぱなしだった。親戚が野菜を作っているため、いつも野菜は大量にあって、洗うだけでも大変だったと思うが無駄なく丁寧に調理していた。
そんな母が来てくれたおかげで、産後一か月は上げ膳据え膳で過ごさせてもらった。母にはとても感謝している。
赤ちゃんは泣くのが仕事だが・・
長男とは入院中に一度も母児同室をしていなかったため、退院してから突然24時間を一緒に過ごすことになった。急に生活のリズムが狂うようになって、朝起きて夜寝るのではなく、長男が運良く寝てくれたらその隙に自分も寝るといった、今までに経験したことのないリズムでの生活が始まった。
まず呼吸のモニターが付いていないことが不安でたまらなかった。最初の頃は長男が寝ていても呼吸をしているのかしょっちゅう確認をしていたのだが、だんだんそれもやっていられなくなった。長男が寝たら自分も寝ないと、次にいつ寝られるか分らない。
長男はとにかく良く泣いた。それで赤ちゃんが泣く=オムツ替えか空腹のサインと思っていたため、オムツを替えても泣き止まないと授乳するしかない。
幸い長男は授乳で簡単に静かになった。しかしいけなかったのは、そろそろ良いだろうと思って母乳をお終いにしようとすると、身を乗り出して離すまいとし、それでも離されてしまったら最後、火がついたように泣くのだった。
再度咥えさせるとまた落ち着くのだが、もう空っぽで何も出てこない上に、こちらは吸われ続けると痛いし、血豆までできている。傷がずっと治らないまま、泣かれる度に吸わせることを繰り返すため毎回激痛だった。それでも吸わせ始めだけで慣れれば何のその。可愛い我が子のためなら頑張れた。
しかし一向に泣き止まない。泣き止んでいるのはおっぱいを咥えて抱っこされている時だけだった。よく赤ちゃんには背中スイッチがあると言うが、長男も御多分に漏れず、私の腕の中でどんなにすやすや寝ているように見えようとも置かれた瞬間にギャンギャンと泣いた。全ては水の泡である。
母乳はそこそこ出ていると思っていたのだが、さすがに足りないのだろうと思って粉ミルクも使うことが増えた。粉ミルクの方が消化に時間がかかるため、一度満腹になって寝ると2時間くらいは連続して寝てくれていた。なので夜は必ず粉ミルクを一度飲ませて、私も母も少しでも寝られる時間を確保するように努めていた。
そうこうするうち、なんとなく長男が脂ぎってきて、以前のような母乳の香りがしなくなり、おじさん臭くなっていることに気付いた。
そんな時、友人が長男に会うために訪ねてきた。その友人には赤ちゃんのいる友達が他にも何人もいたため、私が長男のおじさん臭さを気にしていることについて、「男の子はみんな最初におじさんになって、それから赤ちゃんになるってよく言うよ」と、他の赤ちゃんも結構おじさん臭いフェーズがあるのだということを教えてくれた。それを聞いてちょっと安心をしていた。
それからも母乳では足りないと思う度、粉ミルクを作って与えていた。病院では、”赤ちゃんがほしがるだけ飲ませて良い”と言われていた(と思っていた)ため、母にも頼んで作ってもらい、母も私にお願いされるがままにほいほいと作ってくれていた。
(5)につづく