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薔薇園の薔薇にはなれないという話

「私はあの人よりも努力しているのに、なんであの人の方が幸せなのか」
「なんであの人はあんなにも皆から好かれるのだろうか」
「なんであの人ばかり私の欲しいものを手に入れることができるのだろうか」

いつも自分と他人を比べては、「なんで」を繰り返してきた。精一杯努力しても私は手に入れる事は出来ないのに、あの人は努力をしなくても手に入れる事が出来る。
私の努力が足りないのか?私はどれだけ頑張っても人並みにはなれないのか?そんな事を考えているうちにどんどん自分のことが嫌いになって、自分のせっかくの努力すらも認めてあげることが出来なくなった。どんどん自己肯定感は下がって行った。

ある日ふと、家の庭に植えてある花を見てこう思った。
「この子たちは一生薔薇園の薔薇みたいになる事はできないけれど、私の家の庭でこんなにも美しく咲き誇っている。薔薇園の薔薇にこの子達が劣るなんて事はない。だって事実こんなにも美しいではないか。」

私の家には様々な植物が植えてある。
夏には紫陽花、秋には金木犀、冬には椿、春にはチューリップ。植物の成長と共に、私は季節の移り変わりを感じる。

家の植物達は、最初から庭に咲いてた訳では無い。何も無い土に両親や祖母が種を植え、肥料をやり、植え替えをし、毎日水やりをして、季節が来ると美しい花を咲かせてくれるようになるのだ。

勿論失敗もしている。「今年は花が咲かなかった」「実がならなかった」なんて年もある。
私も過去に自分の手でひとつの植物を育ててみたいと思い、観葉植物を育てた事があった。しかし、水やりの頻度や温度、日光に当てる時間が適切ではなかった為に枯らしてしまった。

植物を育てるという行為は最初は手探りだ。
本やネットでどれだけ知識をつけても、失敗する時は失敗する。そうやって失敗を繰り返し、そこから学びを得、それを積み重ねていった結果美しい花を咲かせる事ができるのだ。

薔薇園に実る薔薇達は、私の庭に生えている子達よりも良い環境で育つ事ができるだろう。
何故ならその薔薇たちは薔薇のことを知り尽くした専門家の手によって育てられるからだ。そしてそんな薔薇を沢山の人達が見に訪れ、「美しいね」「綺麗だね」と言ってくれる。

私の家の花たちは薔薇園の薔薇にはなれない。
私の家の者たちは植物のプロでは無いし、趣味の一環でガーデニングを楽しんでるだけだからだ。

しかし、私の家の庭に、一番最初に植えられた花のことを思い返せば、今こうやって咲き誇っている花たちの方が確実に美しいに決まっている。
なぜなら、今庭に咲いている花は私の家の者達が何年もかけて試行錯誤をしてきた賜物だからだ。

薔薇園の薔薇と比べたら、私の家の花なんて大したものでは無いだろう。しかし、私の家の庭の植物としてであれば、確実にこの子達は成長しているのだ。
薔薇園の薔薇のように、「美しい」と幾人に言って貰える訳では無い。でも「去年よりも美しく咲いたね」と思う私はここに居る。

そして、この庭の花は私と同じなのでないだろうか。私は生まれもって美しい訳では無い。人と比べて劣っている。でもそれは私が単純に「薔薇園の薔薇」として生まれて来なかったというだけであって、私は私という「庭の花」として生まれてきたのだ。

「庭の花」と「薔薇園の薔薇」はそもそも生きている土俵が違う。
庭の花が薔薇園の薔薇に憧れたところで、薔薇園の薔薇になれないのだ。

知識という肥料を、色んな本に触れる事で己に与える。水は私の体をより良いものにする為の食生活や運動だ。
土は花が根を張る土台になるものだ。私自信が私を愛してあげる揺るぎない気持ちが土になる。
余裕が出てくれば、ガーデニングと同じでどんなレイアウトをするかにも気を使うようになる。
どんな鉢に入れたら、どんな花瓶に飾ったら、その花が美しく見えるだろうか。それは私を着飾る服になる。
もし失敗したり挫けたりしたとしても、その時はまた種を撒きなおせばいい。自分を信じてあげるという揺るぎない気持ちがあれば、いつだって種を撒く事が出来る。
土を整え、種を撒き、肥料をあげ、水をやる。そうやって私という「庭の花」を美しく咲かせていくのだ。

そう考えると、他人と自分を比べる必要なんて全く無いし、私は私のペースで美しく成長していけばいい。努力は他人と比べるものではなく、過去の自分と比べるものだ。

そうやって生きていくうちに、私という花を美しと思ってくれるような人にもきっと出会えるだろう。

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