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本の世界

思い返すと、私の人生に読書は付き物だった。

1番古い記憶は小学校5年生の昼休み。
私は机に座り、図書館で借りた本を開いて本の世界に夢中になっていた。それからは友達と呼べる関係の子が私にも出来て、学校の朝読書の時間以外は本を開く事はなくなった。小中とほぼ変わらない同級生達の中で生きてきた私は、高校生になり新しい人間関係を築くことに苦戦した。

元々人とのコミュニケーションを取ることが苦手だった私は、案の定新しい環境で一人浮いた。

その頃から私は本の世界へ逃げ始める。
授業と授業の間の10分休憩は、机に突っ伏して寝るかスマホを触るか本を読むかの3択だった。クラスメイトと話すなんて選択肢は私には無かった。

本が私を拒む事はなかった。

「よく来たね、待っていたよ」なんて歓迎してくれることは無いが拒むことも無い。
まるで「あぁ、また来たのか。どうせならここにいなよ。」と言ってくれるような、そんな関係。
とても心地がよかった。本を読んでいると世の中の嫌なことや辛いことから目を背けられる。

本を開いてたった4行程度読み進めれば、あっという間に私の肉体と精神は本の世界へと誘われる。耳に響いて来るクラスメイトの他愛のない会話も、私の悪口を言っているのではないだろうか…なんて気にしないで済む。ただのノイズでしかない。

10代後半の私は、本の魅力にどんどん取り憑かれて行った。

高校を卒業し、専門学校に進学する。
そこでは今迄にないくらい楽しい思い出を一緒に作ってくれる友達に恵まれた。しかし1年が過ぎた頃、コロナが訪れる。
友達にも会えない生活が続く。家庭環境が良くなかった私は家に居ても孤独だった。かと言って、家を出てどこかに行く事もできなかった。私の居場所は私の部屋だけ。

そんな時、以前買ったきり積読していた夢野久作のドグラ・マグラがなんとなく目に入った。

今迄は東野圭吾や湊かなえといった、中高生が読んでも楽しめるような本しか読んで来なかったが、そのドグラ・マグラだけは「私はこの作品が好きになる」という確信があって購入した本だった。しかしその独特な世界観と今まで経験したことのないような堅苦しい文体から、購入してからもずっと部屋の本棚にしまわれたままだったのだ。
私は本を手に取り読み始める。わけのわからぬままに進んでいくストーリー、その奇妙な世界観とリズム感に私はどんどん夢中になる。
上下巻を3日で読み終えた

読了後に押し寄せてくる、今迄になかった興奮と心の底にズンと残る言葉には言い表せない重み。

「読書ってこんなにも楽しいものだったんだ」

それからの私の読書欲は止まらなかった

以前読んだ事があり、好きだと感じた記憶が微かに残っていた梨木香歩「西の魔女が死んだ」
夢野久作に似た世界観との事でおすすめされていた綾辻行人「眼球奇譚」
以前から読みたいと思っていた村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
Yahoo知恵袋に質問しておすすめされた筒井康隆「旅のラゴス」
物語を純粋に楽しむ事を目的に購入したアガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」

色々なジャンルの小説に触れるようになり、この頃から読書記録をつけ始めた。
本も最近では1冊1000円近くするものもある。読んで終わるだけにしては勿体無いと、感銘を受けた箇所や共感した箇所に付箋をつけ、最終的にノートに自分の考えを纏めていく。読書記録をつけるようになり、自分の好きな作品の傾向がわかるようになって来た。

そんな時に自分の人生観が大きく変わる一冊に出会う。
フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」

書評をする為にこの記事を書いてはいないので、細かいことは割愛するが、この本を読んで考える事の意味や大切さを学んだ。
それまでは辛いことがあると「もう嫌だ!知るか!」と投げ出すような性格だった私は、冷静になって問題を対処する術を身につけ始める。そのきっかけがこの罪と罰、いや、ドストエフスキーという作家だったのだ。

コロナ禍から始まったこの読書習慣も、途中病気になり1年間読書ができなかった事もあったが、現在では100冊近い本を読んでいる。

その作家の全作品を読破した訳では無いが、
ドストエフスキー・太宰治・夏目漱石・三島由紀夫・カフカ・安部公房、この人達の書く作品が私は好きだ。

最近は古典哲学にも手を出し始めた。
マルクス・アウレリウス「自省録」には、ドストエフスキー作品を読んだ時と同じくらい、自分の助けになるような事が沢山書かれていた。
私は自省録を人生の教科書と呼んでいる。

仕事の昼休みと帰りのバスで本を読む事が日課になっている。休みの日はひたすら自分の部屋でコーヒー片手に本を読む。

「君はこんな事に悩んでいるのかい?」「それは少し重く捉えすぎだね」「それはもう少し立ち止まって考えるべきだ」
本を通して作者と、そして私自身の心と会話をする。
私が現実世界に馴染めない時に本の世界へ逃げていたのは、そこに行けば私の心と会話が出来るからで、それによって孤独を埋める事ができたからだ。

夢野久作から本格的に始まった私の読書人生は、ドストエフスキーによって洗練されて行き、私の人生に欠かせないものになった。

今日も本を開けば「あぁ、また来たのか。どうせならここにいなよ。」と声が聞こえてくることだろう。

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