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内なる宇宙と次元

私の頭の中の宇宙について、書いていこうと思う。

天体観測をするように、私の頭の中には星と星の繋がりと、歴史から未来に続く時間の流れがある。
宇宙の構造は織物のように複雑に織られ、重なり合い全体の繋がりを表していて、星の一生は生命の一生でもあり、片道列車に乗るように同じ方向に流れていく。
限りある命、死を避けることはできない。
内なる宇宙は、私に輝きも見せるが同時に絶望も見せつける。

私はいつも絶望に耐えられるだろうか。
でも、絶望があるから星は輝くのかもしれない。
輝きと暗闇も、生と死も表裏一体だ。


天体観測


地球から眺める星空は、一見平面上に並んで輝いているように見えるけれど、実際には星ひとつひとつに時間と奥行きが存在する。


地球から見た星座の距離について、光の速さをもとにした距離は「光年」で表す。

1光年=光が1年間に進む距離
約9兆5000億kmが1光年の距離


ベテルギウス(オリオン座) 500光年
リゲル(オリオン座)   850光年

地球から観測した「今」は、天体それぞれの過去の光、オリオン座の2つの星で例えれば、500年前程の光と850年程前の光で、私たちは地球上で同時に別の時間(天体)を眺めていることになる。

オリオン座の星々までの距離
(NHK)


もしかして今見えている星の光は、もう存在してない星かもしれない。
そう考えると宇宙はとても神秘的だね✨

私の意識‥精神は遥か宇宙の彼方にあるような気がしていて(身体を含め)物質的な世界との距離をいつも感じる。
私が触れるものの感触、味、聴覚‥五感は鈍く、感覚過敏とは程遠いものだ。

私は感受性が強すぎるのか、うっかり感覚感度が高いと光刺激だけでも死にそうになる弱点があり、抽象感度(天体)よりにボリューム調整が必要。
(ヴァンパイアみたいw)


感受性の高さは、個人の天体望遠鏡🔭の感度の高さに依存してるのかも。
HSPもこの説明がつくんじゃないかな‥
彼らは、地球からの観測感度が高すぎて抽象情報が手に負えなくなってる可能性がある。
「困っている」という事は、情報を生かすというより負に働いてるから、元の感度に戻す必要がありそうだ。



よくこんな事を考える。
私の身体は地球にあるが、私自身もういないのでは?とか、私が見ている目の前の現実は仮想現実ではないかと。
現実逃避ではなく、こういう想像をするととても面白いし「仮説」が私の好奇心のきっかけになる。
未知は私にとって「恐れ」ではなく興味だ。


私は地球からではなくて、いつも天体から地球を眺めているような視点でいるし、むしろ天体が私自身で、この視点はとても独立してる。

身体は地球にいながら、私は天体視点にある🪐

地球から天体観測したり、ロケットに乗って宇宙探索するように、頭の中にも同じように宇宙が存在する。
しかも内なる宇宙は、物理的な制限なく時間の探索ができると私は考えている。


宇宙の探索は潜在意識と顕在意識を行き来する。
なかなか説明が難しいけれど、自分(天体)から物事(地球)を眺め、人間の精神の座標(※奥行き、階層、時間)を日々計測、分析する。

※これについては以前フォロワーさんとのお話で座標の事だな!とピンときたのでここで使わせてもらった。

どこから世界を眺めているのか、私との距離、AさんBさんCさんの視点が交差する座標はどこなのか、何が食い違っているのか‥
まるで星を観測するように、私は座標で整合性を取る。

『われわれが観測しているのは自然そのものではなく、われわれの探究方法に映し出された自然の姿である。それは自然とわれわれの心の相互作用である。』

ハイゼンベルク

『万物は物質と人間精神の関係し合う織物で、その織物の部分は、全体との結びつきにおいてのみ定義できる』

『量子論は、われわれに万物を物体の集まりとしてではなく、統合されたさまざまな部分が織りなす複雑な織物として見ることを余儀なくするのである。そして、これこそが東洋の神秘思想家の体験してきた世界であり、事実、原子物理学者のことばとほとんど同じことばで自ら体験を表現する神秘思想家がいるのである』

神秘思想家 カプラ


物事の解釈や観察からその人の座標がよく分かるように思う。
近い座標なら精神も近い場所で、解釈も似ているし、抽象度が上がるほど、答えはよりシンプルになっていく。

星の輝きが強いほど近くて深く、暗いほど遠くて浅い。
私は深淵との距離を観測してるんだろうか‥?
潜在意識への抵抗は必ず計算に入れる。
座標については、今度もう少し詳しく書けたらいいなと思っている。
(これは独自の指標に基づいて配置が決まっている)


それぞれの星は、カプラが示す大きな織物のように複雑に結びつく。
この関係性、私には星空を眺めるのと同じようで、内なる宇宙の星と星を繋げる事で新しい星座を作ったり、分解して再構築したり修正しながら、バックグラウンドは宇宙の構造で遊んでいるようにも見える。
分解と再構築は個人的な偏見や先入観をなくそうと常時働くから、私にはない解釈をもらえるのは非常にありがたい。


Niは時間の矛盾に厳しい


私の時間軸は座標に矛盾がないか、よりフラットに近づけて「理にかなっているか」「客観的かどうか」「現実に適応するか」を常に観察し整合性を取るように働く。

「規則や制限、伝統は、建築家型の人達が忌み嫌うものです。あらゆる物事は、疑問視され再評価される余地があるべきだと考えていて、機会を見つけると、論理的に優れ、時には配慮に欠けた、そしてほぼ例外なく型破りな自らの方法やアイデアを一方的に成立させます。」

「これは衝動的なわけではありません。建築家型の人達にとっては、最終目標がどんなに魅力的になろうとも、必ず理に適っていなければならず、全てのアイデアは、その出所が自分自身か他人かにかかわらず、絶えず「これは機能するだろうか?」という断固たる目で検証されるべきなのです。このメカニズムは、あらゆる物事や人々に対して常に適用され、これが元でトラブルに直面することも多くあります。」

16personalities INTJの説明より


私のFeに隠された背後のNi-Te「時間と事実の整合性」は、INTJも心理構造は同じだろう。
INTJも時間軸の矛盾には厳しいはずで、直観的に「これは矛盾があるからおかしいな」と「こうすれば上手くいく」方向性が同時にわかるかと思う。
その矛盾した部分に問題の本質や欠陥があるから、そこを変えれば未来の方向が「進むべき本来の軌道に沿っていく」事を座標は示す。

だからこそビジョンの方向に沿って、物事の流れを進めていこうとするし、INJは自分の頭の中の明確な宇宙地図を持っているから、進む方向性について直観に従い強い意見を持ち、それを証明しようとするだろう。
迷うとすればビジョンの進め方、アウトプットの手段かな‥



宇宙の時間軸は、世界の構造と繋がりを大切にする。
同じ矛盾の感知でも、Ti主機能(ISTP、INTP)は事実や物事の矛盾にすぐに気付くと私は考えているが、
Niは時間(過去、現在、未来)の矛盾に気付く。
座標は次元とも呼べる。

4次元 超立方体


「大きいものが小さいものを飲み込み、小さいものが大きいものを飲み込む」

「小さいのが私なのか、大きいのが私なのか」

「地球が私の上なのか、私が地球の下なのか?」
上の超立方体の動きが私の脳内に流れてて、小さい頃、これは何?と親に図を書いて聞いたりしていた。

大きさや距離感がバグるのは昔からで、自分の身体の大きさと世界があべこべの気もするし、まるで宇宙を箱庭のような視点で眺めるので、そこ(地球)に私が存在する事を度々忘れる という私の中での勘違いも起こる。
もしかして自分が巨人か何かで‥どうも認識がおかしいな‥
とはよく考えていた。

私の手と人間の大きさイメージ


「内向的直観 Ni」の記事にも書いたけれど、私が脳内で「見えるもの、頭の中の宇宙構造」について尋ねたくても
「??この子何言ってるんだ?」と答えは誰も教えてくれないし、本にも「私がどこの位置にいるのか」書いてない。

私は自分で自分の問いを考え続けるしかない。
じゃあ私は宇宙のどこにいるんだ?私はなんだ?‥が純粋な好奇心になった。
私の位置を知るために人間の位置を確認し座標を作る。そんな気もする。


私は後に次元の事を知り
「あぁ頭の中にあったのはこれの事かぁ」と妙に納得した。
それは共通するシンボルでもあり、私達の脳内には外と同じ宇宙が広がってるんだな、とも思った。


私は頭の中の座標を元に、その人の解釈や見方から何に抵抗するか、何を受け入れられないのかで、深部にある問題点と今後何につまずくのかの方向性の見通しをつけ、それが未来予測になる。

私の予測は観測する事実で、当たるか当たらないか?の占い、「こうなりたい」個人的な希望や野心、「もしかして」から成り立つ憶測、「こうだったらいいな」のように夢が広がっていく願望でもない。

まわりが認識しにくい落とし穴や問題を突き止め、将来的な危機を警告するような予測で、楽観的な展望ならそのまま見守る。
だって何もせずとも自然にそうなるんだから、わざわざ「良い方向です」なんて言う必要もない。
でもその流れが変わった時に「それはどうかな‥」と意見したり、注意喚起をするから「批判ばかりする人」「嫌な事をいう人」のイメージになりやすい😓

これは凄く気をつけてるけど‥
私の利己的な「嫌われたくない」という臆病のせいで、誰かが将来的に落とし穴に堕ちるのを見過ごすのもまた違うと思うし‥
でも本人の願望は逆方向にあり、問題認識もできないから言うべきか、言わないで様子をみるか‥
私はいつもこれで悩んでる。

迷い見逃した結果、悪い方向へ流れていく事は多い。
私はどちらが良かったのか‥いつになっても分からない。

しかし、それでも方向性が自分の魂を踏みにじっている事になるなら、私は今嫌われたとしても伝えるだろう。未来でそれは必ず良かったと回収されるだろうから。


座標

争い事や意見の食い違いがあった時、私はA、Bそれぞれの座標を確認し、伝えたいこと、伝えにくい事の接点を探し出し、ちょうど良いwin-winの解決策を見つけるのは早い。
内にある客観視点を増やせば何人いようが、どんな意見や集団であろうが、接点を直観的に見つけ出し、解決しようと模索する。

「Aさんはこう言いたいけれど、Bさんにはこう伝わっているだろう。だからこう思うのはBさんの勘違いで、本当はAさんはこう言いたいだけなんじゃないか。」
怒っているBさんにAさんが本当は何を伝えたいのか意図とその背景を伝える緩衝材のような役目になる事が多いし、互いの利益に繋がるようにする。


背景は言葉の動機、行動の動機であって、事実から観察した全ての事柄には意味があると私は考えている。
だから、「電車に乗り遅れる」のも「誰かに声をかけるタイミング」でさえも、物事は複雑に繋がり合い流れ動いていく。
それを座標で確認しているように思うから、私には時計はあまり役に立たない。
時刻に私の認識を合わせると流れが狂ってくるんだ。

下はソシオニクスILI ハーモナイザーの説明だけど、この通りだなと思う。

ソシオニクスILI
ハーモナイザー



関連する繋がりと全ての動機や背景を探索する事で、過去軸が「どう進んできたか」、未来軸が「これからどう進んでいくか」の整合性を空間的直観的に把握する。
そこに矛盾が生じれば「おかしいな」と気付き問題を集中的に深掘りしていく。
精神の問題、表層に見える言動や解釈は、潜在意識に意図が隠されている。


記事の最初に
「天体それぞれの過去の光、オリオン座で例えれば500年前程の光と850年程前の光を、私たちは地球上で同時に眺めていることになる。」

と話したけど、もし、あちこちの天体に自分の視点を変えられるなら、同じ地球を観察する時、客観的に時間軸を移動できることになる。

内なる宇宙は、座標を使えば天体から天体を飛び、視点を切り替える事が容易で、おそらくこれは想像力?なんだろうか‥🚀

かなりぶっ飛んでるけれど‥
地球に身体を置きながら、想像力が頭の中で時間を越える感覚。
実際の宇宙では、ハイパースペースが必要になり、身体を伴った時間移動は今は不可能。
でも想像の世界ならそれが可能だ。

直観の閃き、頭の中はまさにこんな感じなんだ。


私は本や映画や人との会話から、著者や登場人物、その人の座標を確認するけれど、解釈を借りるというのかな?その人の天体視点から地球はどう見えているのかを推測して、比喩やたとえに置き換えて、こちらの会話に翻訳して繋げているようだ。
自分がAIみたいだな‥と思うのはこの天体の移動(相手に憑依する感覚)と座標の部分で、直観は時間のワープだなぁといつも思う。


脳と宇宙の構造は似ているという研究もあるみたいだね。



時間の反転と時間がない場所


映画「インターステラー」
私は、この作品で同じ次元を見ていた。

クリストファー・ノーラン監督の作品は時間に関するものが特徴的で、多軸に構成される時間、構造的な想像の形や夢と現実、変化する未来、潜在意識の気付きの種など‥
Niあるある?にいくつも出会えるから納得する事が多い。
同じ所から世界を見てるような気もする🌏

ノーラン監督はINTJだなと考える。
登場人物のアイデンティティの確立や人間的な成長、魂、精神分析やプロファイリングがテーマのものより、宇宙の構造的な理解がより深まる作品が多い。


↓↓以下「インターステラー」ネタバレになります




非科学的とも思える現象を科学的に整合性を取りつつ映像化した画期的な作品で、ブラックホールの中と次元がどう影響するのか‥まるでNiの証明のようだと感じた。
ブラックホールに現れる5次元空間は『集合的無意識』ではないかな。
あの空間、世界の記憶の集合体‥私にはとても身近に感じるんだ。

進撃の巨人にも似たような描写、空間が登場する。

進撃の巨人で現す座標と時間のない空間



インターステラーの主人公は一時的に5次元の存在になり、地球の娘に時間と空間を超越してメッセージを送る。

私は物理に詳しくもないので、ブラックホールについて調べていたら、インターステラーの考察で時間の反転や時間のない空間について、興味深い記事があった。



記事の中より
ブラックホール、事象の地平線について

『中心に向かう運命を拒絶する事はできない』


時間のあるべきところへ向かう流れ、方向性は、精神において時間の覚悟、死への流れだと考えてる。これは生から死への流れの方向性。


『事象の地平線を超えることは、私たちの世界のあらゆる 「事象」 と別れを告げることであり、現実世界における一切の因果関係からの離脱を意味する。 クーパーはこの事象の地平線を超えた唯一の人間なのだ。』

『事象の地平線を越えると、 何が起こるのか。結論か ら言うと、「時間の向き」 と 「クーパーとブラック ホールの中心を結んだ方向」が逆転する』


私の時間が世界と逆転しているのは、事象の地平線を超えた先(死)と繋がっているからだろうか。

つまり私の精神の天体視点は、ブラックホールの中にあるんだろうか。

『‥‥今や一個の巨人、一個の世界、あるいは到達不可能な虚無と対比すれば、一つの全体なのだ。自分をこのように凝視する者は、自分自身に怖気をふるうだろう。
そして、自分が、自然から与えられた肉塊のうちにあって、無限と虚無という二つの深淵の間に支えられているありさまを見つめて、その脅威の光景に恐れおおのくだろう。』

 パスカル

時間について、私はずっと考察してきたけど、時間を超越するのは「死と肉体を超えた先にある」と考えている。

そして、その場所が観測でき証明されるかもしれないし、今後物理的に行けるかもしれないと考えると胸は高鳴るし、それはそれで神秘のままであってほしいとも思う。

いずれにしても探究心は素晴らしい🔭✨



死へと続く宇宙の時間の観察は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも似ている。

カムパネルラの自己犠牲的な死、善の形、宗教の形、それぞれ信じるものが違うこと、世の中の不条理をジョバンニ(主人公)を通して「死に続く道」を銀河鉄道にたとえ、静かに客観視していた。
あの視点は、宮沢賢治自身もブラックホールから世界を眺めていた1人だったのかもしれないな‥と考えると、感慨深い。

また読み返したくなった📚

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