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曇り時々エモーション

他人の夢の話ほど、つまらないものはない。

と、誰が言ってたのだろう。
僕もそう思う。

思った上で、僕の夢の話だ。

最近、まいにち夢を見ている。
起きた瞬間、ちゃんと覚えている夢だ。

漠然と、何かの夢を見た話ではない。

はっきりと覚えている、夢の感触ではなく、確かな記憶として。

人生に、一度ぐらいはそんな夢を誰も見るのだろう。
それが、まいにち、である。

大丈夫だろうか、という気になる。

例えば、ある日の夢はこんな具合だ。

僕は旅行に来ている。団体旅行で、船に乗っている。船はすでに陸が見えないぐらい沖に出ている。大きな船だ。サーカス団が乗っていて、毎日ステージがある。絢爛豪華な船だ。その船に乗っているという夢。

フロイトなら、僕の精神状態を赤裸々に分析して、したり顔をしているのかもしれない。

そんな意味はない。
と、言い切れるだけの勇気、覚悟もないから、僕は曖昧にうなづいて、炭酸水を飲み干した。


今、被災地に来ている。

僕は地方自治体職員であり、僕が属する自治体に被災地から避難所の支援要請が来た。
公募式で手を挙げたものが優先される、だから手を挙げた。
特に深い意味はない。

誰かが、倒れたら、起こせばいい、それだけでいい。
とチバさんも歌っているじゃないか。


そう、夢を見ていたんだ。
ホテルのある金沢市から避難所のある七尾市に向かう車の中。
僕はうとうと眠っていた。

ずいぶん呑気だと思うかもしれない。
けれど、車に揺られていれば眠くなるのは必至だ。

眠れる時に寝ておくことは大切だ。
なにせ今夜は、これまで経験したことのない夜勤だ。

夜に起きていることが、どれだけ辛いか知ってるか?

知らない。

知りたくもない、けれど、否応なく起きなければならない時もある。

何もしない、けれど、起きている。

様々な事情で家に居られない人がいて、僕は何もできないけれど、夜に起きていることは、できるからやる。

昔、その街の子ども、という映画を見た。
これは間違いなく名作だからみなさん見てください。
森山未來と佐藤えりこが会話しながら夜通し歩く映画だ。
阪神淡路大震災がテーマの映画で、ほとんど何も起きないけれどとても心が揺さぶられる。

夜通し歩くことは、僕にはできない。
もしするとしたら、家族が怒り出すかもしれない。危険だ、阿呆なのか、とかなんとか。
僕は無鉄砲で、竹を割ったような性格だから、止められるだろう。

話がずいぶんそれた。

避難所に着いた。

建物の裏側に駐車場があり、車から降りると、縁側のようなところでタバコを吸っている男性がいた。僕ら支援員の姿を確認するとすぐに室内に入っていった。

その避難所は昔保育園として使われていて、今は地域の集会所として継続使用されている建物だった。
ここに13人の避難者が生活を送っているという。
建物には支援物資で溢れていた。
半年ぐらいは生活するのに十分な量の食材や日用品が、決して広くない集会所に詰め込まれていた。

午後8時、まだ避難者は起きてテレビを見ている。
遠慮がちに僕らは挨拶をした。避難者は誰も一様に、弱々しく会釈を返してくれた。

避難者ではない、七尾市の職員や集会所の管理者と名刺交換をして(そう推奨されていたので)、彼らはあまり興味がないように受け取り、これまでにきた支援員の名刺の束に混ぜた。

支援員は一週間単位で入れ替わっていく。彼らはもう慣れてしまっているのだ。


最初の夜は長かった。

緊張もあり、仮眠を取ろうと思ってもうまく眠れない。

夜間の支援員は僕を含め2名で、初対面の別の自治体の職員だった。
僕とその支援員は少なくとも4日間、夜を共に過ごさなければならない。
仲良くなった方がいいに決まっている。
だから僕はできるだけ話しかけてみた。
好きな話題は何か、探し続けた。
彼は、同世代で、あまり饒舌に喋る方ではなかった。
けれど、同じ立場なのだから、険悪にならないように、その会話に付き合ってくれた。

話も弾まず、ほとんど無言で、ストーブの燃える音がチラチラときこえる。
深夜なのに時折、集会所に面した道を自動車が通りすぎていく。
隙間風がたまにここまで届く。

こんなにも夜が長いなんて知らなかった。

新聞が3時に届く、それを指定の位置に動かす。
僕がやったのは本当にそれぐらいだった。
延々と流れているテレビを時々見つつ、空が白んで来るのを待った。

朝がくればやることがあるのか。
朝食を作るのは、避難した人と、近所のおばさんだった。

昔、賄いの仕事をしていたんだ。
とその人は言った。

作る料理は確かに料理屋の賄いの味だった。
簡単に作っているのに、なぜかうまい。

四半世紀前のことだけどね、というが、衰えていない。
料理する力は衰えないのだ。

巡り巡ってその人は毎食、自分を含む、周りの人のために料理をする。

頼り始めれば、関係が成立し、支えられる側から支える側へ行き来する。

家は全壊し、帰る場所はないけれど、今こうして料理しているその姿は、輝いているはずだ。

異論ないだろ?

初日、支援員は食料を自分で確保するように、とおふれが出ていたため、コンビニでおにぎりを買って持っていった。

が、しかし、僕らは朝食のお手伝いをして、余ったものを食べて、と言われる。

余ったもの、といっても、たくさん作っているから全部余っている。

残れば次に回されるだけだが、食材はいくらでもある。

作り気力さえあれば無限の可能性。

だから、食べ尽くしても問題ない。

暖かい、味噌汁とご飯、その日は麻婆茄子が朝食に出ていた。

いきなり正解が出た気分だ。

僕が今回の被災支援中に食べたものの中で最も美味かったのは、この麻婆茄子になる予感しかしなかった。

それから迎えにきた日勤組に簡単な引き継ぎをして避難所を後にする。

昨日は暗くて見えなかった被害家屋が時々あって、やはりここは被災地なんだな、と、金沢へ戻る車に揺られ眠りにつく寸前に思った。


睡眠を取らなければ人間は生きていけない。
それは知ってる。

同時に人間はその環境に適応する。

まとまった睡眠をとることができないのなら、隙間睡眠は徐々に凝縮されていく。

ある睡眠は、1匹の魚である。

その小さな魚は大海で、とても弱い存在である。

すぐに天敵に見つかり、追い立てられる。
日々、戦々恐々として、逃げ回っている。

もう1匹の睡眠が生まれる。
か弱き存在は協力することで、その世界で生きながらえようとする。
当然の選択だ。

さらに1匹、1匹、1匹。

気づけば睡眠は群れをなし、その胎動を待ち構えている。
すでにか弱き存在ではなく、組織として、周りに影響を与え始めている。

本人はまだ、気づいていない。
あくまでも個人として、固まっているだけである。
脆く、儚い組織なのである。
そこにルールも習慣もない。

ある日、赤い睡眠が生まれる。

彼は他の睡眠と容姿が違う故、蔑まされ、囃し立てられる。
その睡眠の名を、スイミーという。

スイミーは悩む、僕のように目立っていてはすぐに食べられてしまう。
僕は異能の、出来損ない。
何のために生まれてきたのだろう。

スイミーにそっと耳打ちする高齢のフジツボがいた。
お前はあの組織の目である。
お前が率いるのじゃ。

スイミーは睡眠の群れの目となる。

途端に群れは巨大な意志をもつ存在となり、大海を優雅に泳ぎ回る。

要するに、僕は夜勤に慣れていった。
短時間を睡眠を積み重ねることで、長い睡眠と比較しても遜色ないように体は適用していった。

避難所といっても、その場しのぎの集会所である。
人が暮らすことに特化されて作られているわけではない。

人が暮らす上で支障あることがいつくもあり、当然、その全てを解消できるわけもないから、暮らす人が妥協に妥協を重ねて暮らすことになる。

例えば、トイレは集会に来る人が、ちょっと催した時に使用する程度で想定されている。
毎日数十人が使うようなタフな作りではない。
(それでも日本の高い技術が快適さを支えている)

大量の排泄を受け入れる体制でないトイレが詰まり、やがてトイレを敬遠し、避難者は体調を崩していく。
いわゆる負のループに陥りがちだ。

そう、突然、トイレが使えなくなった。
仕方なく隣の施設のトイレを使おう、ということになる。
2月である。
今まで、夜中に起きて、それでも冷えた集会所内を移動し、さらに冷えたトイレに行くだけでも苦痛であった。
そこにきて、一旦極寒に近い外に出て、隣の施設に入り、そのトイレを使う、である。

みんな好き好んでここで暮らしているわけではない。
家が全壊で帰る場所がないだけである。

怒号を浴びせられてもしょうがないのではないか。

それでも、穏やかに、そのうち直るんやな?と確認するだけの避難者。

その境地に僕はいつか至るだろうか。

石川を後にする。

毎日12時間を4回、何もない部屋で待機したことに比べれば、石川から京都北部までの4時間ほどは一瞬だった。

もう日常に戻ってきた感覚。

不思議な気がした。

もう、関わることはないのだろう。
あの避難所の、生活をしている人たちとは。

僕にもう少し、正義感や、優しさがあって、継続的に被災者と関わろう、などと思ったのなら、関係は継続するのかもしれない。

けれど、そんな高尚な人物ではない。
僕は俗物、そのものである。
すぐに楽な方へ、ふらふらと歩いて行ってしまうのだ。

家に帰れば家族は暖かく僕を迎えてくれるだろう。

お土産はたくさん買った。
それを子供たちは喜んで受け取るだろう。
もちろん僕はそれで満足だ。

僕がいない間、何かしら負担をかけてしまったことは事実だ。

だからせめて、楽しい気持ちになってもらいたい、と僕は思った。

今回、支援なのか、観光なのか、微妙なところであった。

結局、何もできなかったと言った方が早いかもしれない。

5日間、石川県にいたわけであるが、支援する側も環境によってさまざまである。

僕のように、夜待機するだけの支援もある。

水道も電気も通っていない環境での必死の支援もある。

与えられた環境下で、精一杯のことをするしかない。

もう一度行くか、と聞かれたらもちろん行く。

望むところだ、とさえ、思うだろう。

そうして5日間、僕は被災者を支援して、つらつらと語るのだろう。

軽薄、とは思わないが、何か違う気がした。

そう言う答えを探してみんな生きてるんだろ馬鹿者が。


今回、僕は昼に金沢を歩き回っていた。
美味しい物も食べた。
観光地も見た。

夜、待機の際に仮眠をとることができるからだ。
大変ありがたい一方、もっと求めてもいいのではないか、と思う。

僕らはまだまだやれる、と。

そう思っているのは僕だけかもしれない。

夜勤、それ自体が慣れていないから大変なんだ。

そうかもしれない。

被災者、それを支える地元市職員からの言葉に救われる。

あなたがいるから、私たちは夜に休むことができる。
それまでは交代で、夜も待機していた。

おじいちゃん、おばあちゃんは、不安なのだ。

だから決して無意味だったわけではない、と思い込もう。

配られたトランプで勝負するっきゃないのさ、それがどんな役割だろうと。

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