見出し画像

ラストオーダー

「お客様、ラストオーダーのお時間となっております   が、ご注文は以上でよろしいですか?」
ギャルソンエプロンを腰に巻いたホール係の店員が、
ひとつひとつのテーブルを巡って行く。
……ああ、もう、そんな時間か。
客は、時計に目をやる。自分の腕時計をチラッと一瞥する客、店内の大きな柱時計の針先に目をやる客。
「もう、閉店かね?」と店員に尋ねる客。
「いえ、閉店は夜8時となっております。ただ、ご注文をお受けするのは、7時半までとなっておりまして……」
「そうか、ならコーヒーをもう一杯。」
「先ほどと同じ、ホットでよろしいですか?」
「ああ。」そしてこの店に置いてある日経新聞に顔を埋める。「ホットワン追加でーす」元気のよい声が、
カウンターから奥にいる調理係に向かって届けられる。
今、まさにコーヒーウォーマーやら、カップウォーマーの電源をoffにしようと人差し指を持ち上げたキッチン担当は、その指で温まったカップを取り出し、もう少しで廃棄するはずだったコーヒーをなみなみと注ぐ。
その間に慣れた手つきで素早くホール係の店員は、
ソーサーにミルクピッチャーと砂糖とスプーンをセットする。「お待たせしました。」
そっと、音を立てないようにホール係は先ほどホットコーヒーを追加で注文した客のテーブルに置いた。
音を立てないようにするのには、ちょっとしたコツがあり、とても簡単なことなのだが、まずソーサーを持っている自分の手をまず先に置き、ソーサーの端をやや傾けながらテーブルに着地させてから慎重にそっと置く。
それが出来ないホール係はガチャガチャ言わせながらコーヒーを運んで来て、ガチャン!と置く。
驚いた客が大して理解も出来ないのに読んでいるふりをしていた新聞から、顔を上げるほどに。
つまりこの店員はなかなかの手練れであると言える。
手練れの現在の心境はかくあった。
(この客、いつも閉店ギリギリまで粘りやがんだよなぁー。ああ、だりィー。空気読めよ、空気。オレがラストオーダーですが、って言って回ったら、あらもうそんな時間?っつって、お会計済ませてさっさと帰ってくれた客、マジ神。ちゃんとわかってんじゃねーかよ。
オレたちの時給がなんぼか、知ってんのかよ。休憩っつって、休憩室なんてないし、飯食ってても客来たら対応しなきゃなんねぇんだよ。夜は閉店作業とかあっから、ふたり体制だからまだマシだけどよ、昼間のワンオペん時なんか、トイレにも行けねーのによ。)
ウンザリだー。と手練れは思う。空気の読めない新聞客は、本当に今日も閉店ギリギリまで店に居座った。
会計もギリギリにだ。手練れ(レジ締めギリギリじゃんかよ。本社にデータ送る時間決まってんのに)
なんてことを思っているとは思えないニコニコスマイルで、「ありがとうございます、お気をつけてお帰りくださいませ。」と言いながら淡々と手元では金銭授受を行う。読んでいた新聞をマガジンラックに戻すと、
振り向いて手練れに向かってこう言った。
「わたしは若い頃からこの店の常連でね、毎朝ここでコーヒーを飲んでから出勤していたんだ。実は妻と出会ったのもこの店でそれからは妻とふたりでよく来ていたんだが妻が倒れてしまってね、しばらく入院している間、家に帰っても誰もいないもしかして妻を失うようなことがあったら、わたしはどうして生きて行けばいいのかなどと気持ちが落ち込んでしまったりしていた。やっと退院が決まって、明日
妻が家に帰って来る。そうしたら、またふたりでここに来てもいいかい?」
いつもは無口なおっさんがめずらしく饒舌なのは、喜びを隠せないからだろう。そして誰かに話したくてたまらなかったのだろう。それが、なんの縁もゆかりもない
ただのカフェの店員だとしても。
「それはよかったですね!是非、奥様といらしてください、お待ちしております!」手練れは、本心から言っていた。自分とは関係ないのに、客の喜びといつの間にかシンクロしていた。どこか清々しい、嬉しい気持ち。
なんでだろう、自分は何もしていない。
あの客に特に今まで思い入れはない。いやむしろ疎ましくさえ、あった。表のシャッターを下ろし、看板の電光を落とす。静まり返った店内で残った洗い物を店員ふたりで片付けている。「飲むか?」キッチンがきいたので手練れは「ウン」と頷く。ふたりで残りのホットコーヒーを飲む。ブラックで。責任者からミルクや砂糖などの備品は従業員は使ってはいけないお達しがある。
最初は苦手だったブラックが、慣れるとそうでもなくなった。否、むしろ今はブラックを気に入っている自分に手練れは気づく。キッチンは我慢していた煙草を吹かす。「あのさ、」手練れは誰ともなくひとりごとのように口に出していた。
「他人のしあわせを喜べるオレって、しあわせなんだな。」
「ああ、」ふぅーっとうまそうに煙を吐き出しながら
キッチンが言った。「おまえは単純バカだからな。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?