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仏勉人好。無駄話ってなんだ。

ボンジュール。
ジェーム ル カフェ。

仏勉人好き、フランス留学への準備を進めているふつべんひとよしだ。

この間からずっと引っかかってる言葉があるから考察してみる。
その言葉とは「無駄話」だ。


無駄話のエピソード

僕は親戚と話をしていた。
彼は中学地理の教員で、すでに退職している。

たぶん1年以上ぶりに会った。

彼と久しぶりに話せるのは嬉しかった。
近況を知りたかったし、単純に言葉を交わしたいとも思っていたのかもしれない。

彼の仕事の話、お金の話、家族の話
僕の進路の話、僕の家族の話

まあ、言ってみれば、当たり障りのない近況報告ってやつをしたんだ。

ふと、質問した。
「普段、家族とどんな話をするのですか」
彼はお酒好きで、娘の旦那にあたる息子と、晩酌をしていると聞いたから、
その際、何を話すか気になった。

すると、こう言った。
「会社の話とかをすることはないね。
彼は、知識が豊富でさ、この前、桜の原産地の話をしてくれたけどおもしろかったなあ。結局地理に関連する話をしてるかもしれない」

時間は過ぎ、別れ際に彼はこう言った。

「たまには、こういう無駄話もいいね」


ここから、僕の疑問は始まった。
なぜなら、以前Noteで取り上げた話題と関連していると思ったからだ。

無駄話と雑談


さて、無駄話とはなんだろうか。
日常会話や雑談と何が違うのか。

無駄話と状況

まず「無駄話」とは、通常、どんな状況で使われるのだろう。
例えば、こんな感じではないだろうか

・バイト中、他のバイトとおしゃべりをしていて店長に怒られる。
「おい、こらそこ、無駄話してんじゃないよ」
・受験が近づく時期の授業中、先生が生徒に言う
「無駄話してる場合じゃないぞ、集中しろ集中」

無駄話とは、
その場の状況から考えると、
話すこと自体が好ましくない場合や、話すことの優先順位が低い場合に使われているようだ。

無駄話と雑談が与える印象

ここで、先ほどの例文の「無駄話」を「雑談」に変えてみよう。

・「おい、こらそこ、雑談してんじゃないよ」
・「雑談してる場合じゃないぞ、集中しろ集中」

うん、さほどの違和感はない。
ただし、言葉が与える印象が違う

「雑談」を使う場合の方が、非難とか叱責の文脈であっても、
その印象が薄い気がする。


上の文章は、こんな風に言い換えられるんではないだろうか。
「楽しそうにおしゃべりしてるのはいいけど、今はすんなよ」
「おしゃべりは後にしろ」

「雑談」の場合、話す内容がとりとめもないことなのは前提として、
それ自体、特に否定されている訳ではない。

かといって、肯定されている訳でもない。
いずれにしろ、話す内容に対する何らかの評価は読み取れない。

一方、「無駄話」を使った文章の方はというと、
「雑談」を使うときに比べると、非難や叱責の意味合いが強いのはもちろん
話す内容そのものに、否定的なジャッジがなされているような気がする。

言い換えるとしたら、
「無意味な話はするな」
「そんな話するくらいなら、他にもっとやることがあるだろう」
というところだろうか。

雑談と状況

話を戻そう。
では「雑談」が使われるのはどんな状況だろう。
例えばこんなのはどうだろう

・仏勉人好さんってさ、雑談うまいよね
・取引先の人と雑談してたら、もうこんな時間になってたわ
・うちのクラスの先生の授業は雑談から始まる、というか雑談で終わる

まず、大きな違いとして挙げられるのは、雑談が褒め言葉になるという点だ。
話の内容はさておき、
話題を提供し、関連付けて話し続けられるだけの知識とコミュニケーション能力があると捉えられるからだろう。

次に、「雑談」は、話すこと自体は好ましいわけでもないし、好ましくないわけでもない、というあいまいな状況でよく使われると言えるだろう。
雑談の状況とは、本人らの意思で、何をするか自由に選択できる場面なのだ。

「たまにはこういう無駄話もいいね」の心理


では、以上を踏まえて
「たまにはこういう無駄話もいいね」の心理を考えよう。

確認すると、「無駄話」とは、
・話すこと自体が好ましくない状況で使われる
・話す内容そのものに否定的な評価を下す

という2つの特徴があった。

まず、状況について考えよう。


僕と親戚は、話をするために会っていた。
だから、話すことがむしろ推奨される状況だった。
よって、「無駄話」という単語を選択することは状況にそぐわない。

次に、話の内容について、


僕と親戚はとりとめもない近況報告をしていた。

僕にとって、親戚の近況は、僕の知るよしのない情報だ。
親戚が口を開かなければ知ることのできない情報だ。
よって、貴重な情報だ。ここに否定的な感情はない。むしろ、好意的だ。

他人の気持ちなんてものは分かりようもないが、想像してみよう。

親戚にとって、僕の近況を聞くことや、自分の近況を伝えることは、それほど価値のないことだった可能性がある。

なぜなら、親戚は元教員で、知識欲にあふれた人だったからだ。

知識とは、活用できるものだ。再現性のあるものだ。
他方、一個人の近況は知識ではない。刹那的な情報だ。
知識ではない情報を、求めていなかったので、僕との会話に価値を感じないということができる。

何かに対して価値がないと思うは、否定的な感情だ。

この意味でのみなら、「無駄話」という単語を選んだことは理にかなっている。

結論

「無駄話」という単語を使うことができる2つの特徴のうち、
1つは満たしているが、もう1つは満たしていない。

これをどう結論づけるべきだろうか。

親戚は、単純に言葉選びを間違えたんだと言うこともできるだろう。

しかし、他の考え方もある。

なぜなら、
言葉は、確かに意図を伝えるために存在するけれども、
皮肉や反語法のように、
解釈をひねったり、反対のことを言うことによって、
真意を伝える方法もあるからだ。

「有益な話ではなかった」という意図を、さりげなく伝えるために
あえて「雑談」を使う文脈で「無駄話」を使ったのかもしれない。

P.S

人の言葉尻を捉えて、こんな意地の悪い分析をするなんて、人としてどうなのか、なんてご意見が聞こえてきそうだ。

確かに嫌な感じだ。不快な思いをさせていたら申し訳ない。

僕は親戚のことが好きだし、
否定的な意味合いがあったとしても、ただの勘違いだろう。
だって、会話は二人で作るものだろう。
もし話の内容が無駄だとしたら、その責任は僕にも親戚にもあるはずだからね。
僕は、「無駄話」が与える印象について、事実を述べたに過ぎない。

でも僕は、言葉を学ぶ者として、考えたいんだ。
それに、僕には、考えるに値する後悔があるんだ。

書き留めておきたい。

フランスにいた時、とても仲のいい友人ができた。
美しくて聡明なフランス人の大学生。文学部の女の子。
頼りがいがあって、明るいけど、簡単に壊れてしまいそうな、
危うさをもっていた。でも、そこが魅力的だと思っていた。

それで彼女に伝えたんだ。
「強くて明るくて太陽みたいなところと、
もろくて弱くて壊れそうなところがある。
このギャップがあなたを素敵にみせてる」
これを、そのまま拙いフランス語で伝えた。

彼女がこの言葉に傷ついたというのは後になって知ったことだ。

僕は経験したんだ。
言葉は人を傷つけるということを、経験したんだ。

なぜなら、言葉は意図を伝えるための道具でありながら、
意図してない意図を伝える脆弱性を持っているからだ。
その脆弱性は、言葉に対するニュアンスの知識不足がひとつの理由だと思っている。

だから僕は、考え続ける。
僕の言葉が誰かを傷つける武器にならないように。


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