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野窓仏香です。モーパッサン「ある自殺者の手記」。消化について考えた夜の話。

こんにちは。のまどふつかです。

便利な世の中です。図書館にいかなくても、kindleを契約しなくても、アプリさえインストールすれば、著名な作品が読める世の中です。

本日は読書感想文として、モーパッサンの『ある自殺者の手記』をご紹介しようと思います。

青空文庫に登録されている作品です。

以下のリンクからすぐに読めます。とても短いお話です。15分もあれば読み終わります。ぜひ、その目で文を追ってみてください。


では、簡単にあらすじをお話ししてから、内容の読み込みにはいりましょう。

この作品のほとんどは、ある男の手記をそのまま紹介する形で構成されています。男はその手記を書いた後に自殺をしようというのです。我々読者は、男がなぜ自殺に追い込まれたのかを、手記を通して知ろうとするでしょう。
しかしながら、よくわからないのです。
なぜ自殺したのか。なにが彼を追い込んだのか。分からない。の人々も同じように評価していることもうかがえる、そんなお話です。

男は手記について次のように言い置きます。

この手記は鋭い神経をもつ人や感じやすい者のみに解るような悲惨な最後の理由を述べ尽くしているのである。

モオパッサン、秋田滋訳『ある自殺者の手記』、青空文庫、p.2

裏返して言えば、鈍感で、物事を直接的に受け取る者にはわかりにくい表現があるということです。

では、これを踏まえて以下の文章を読んでみましょう。

食ったものが好く消化れると云うことは、人間の生活のうちにあってはなかなか馬鹿にならないものなのだ。一切のことが消化によるとも云える。芸術家に創作的情熱をあたえるのも消化である。若い男女に愛の欲望をあたえるのも消化である。思想化に明徹めいてつな観念をあたえるのも、すべての人間に生きる悦びをあたえるのもやはり消化である。食ったものが好く消化れれば物がたくさん食えもする(何と云ってもこれが人間最大の幸福なのだ。)病弱な胃の腑は人間を駆って懐疑思想に導く。無信仰に誘う。人間の心のなかに暗い思想や死を念ねがう気持を胚胎はいたいさせるものだ。私はそうした事実をこれまでに幾度となく認めて来た。今夜食べたものが好く消化していたら、私もおそらく自殺なんかしないで済んだろう。

モオパッサン、同上、p.5

「消化」の単語が繰り返し登場しますね。
もしあなたが私のような単純な人間ならこう捉えるでしょう。

便秘でもなくて、胃腸系に病気もないことをもって、「好く消化される」と言っているのかな。ご飯を食べて、通じがくる。この基本的な消化体系が、侮れないと、そう言っているんだろうと。

私はそう捉えましたよ。食事と消化は健康の――ひいては心の健康の――源だと。この考え方はこの考え方で正しいのです。

しかしながら、果たしてこの「消化」は体内で食べ物を分解し、栄養素を吸収する機能という意味だけを示しているのでしょうか。

なにか象徴的な意味を持たされているのではと捉えた方、すてきですね。
私にはなかった発想です。

食べ物以外の例で、「消化」と言ったとき何を思いますか。

以下では、男が「消化」しきれていないと思われるものを見てみましょう。

私は三十年このかた毎日腰をかけて来た肱掛椅子に腰を下ろした時に、ふと自分の周りにあるものの上に眼を投げた。と、私は気が狂ってしまうかと思ったほど劇はげしい悲哀かなしみにとらわれてしまった。私は自分というものから脱れるためにはどうしたら好いかと考えてみた。

モオパッサン、同上、p.6

男が「消化」しきれていないものの一つ目に、「自分」があります。

おおっと、いきなり抽象的すぎる対象が出現しました。
この小説で描かれる男からはなにか、過去と今とを比べたときの失望のようなものを感じるのです。それは例えば、こんなフレーズから考えられます。

私にはこの数年来一つの現象が起きているのだ。かつて私の目には曙のひかりのように明るい輝きを放っていた人生の出来事が、昨今の私にはすべて色褪せたものに見えるのである。

モオパッサン、同上、p.3

男は過去の輝かしさに目をくらまされたのでしょうか、現在の充足を受け止めきれない嫌いがある気がします。

男は「かなり楽な暮らしをしていた人」であり、「幸福であるために必要であるものはすべて備わっていた」のです。少なくとも、物質的に、生きることになんの苦労も感じなくてよかった人間なのです。

同じ時間に寝て、30年も通う料理屋で、同じ時間にご飯を食べる。30年も暮らしてきた家があり、そこには家具もあるらしいのです。現代日本では、皆が習慣化に躍起になる中で、男はそれを淡々と成功させているのです。
けれども男はこう言うのです。

そうしたことが、毎晩、習慣というものに対して嘔吐を催させると同時に、こうして生きてゆくことに対して劇しい憂欝を感じさせたのである。

モーパッサン、同上、p.4

男からは「習慣」に対する嫌気を感じます。きっと、若かりし頃は「習慣」をもつことができないくらい忙しく輝かしい人生だったのかもしれません。

男はこうした人生の変化を受けとけめきれていないのです。
この意味で、男は自分を「消化」できていないのです。

男が「消化」できていないことが、もう少しわかりやすく表されているフレーズが印象深く登場します。

私は久しい前から机の抽斗ひきだしを掃除しようと思っていたのだ。私は三十年来、同じ机の中へ手紙も勘定書もごたごたに放り込んでいたからだ。抽斗の中が手のつけようもないほどとッ散らかっていると思うと私は時折り厭な気持になることもあった。だが私は、整頓するということを考えただけで、精神的にも肉体的にも疲労を感じてしまうので、私にはこの厭わしい仕事に手をつける勇気がなかったのである。

モーパッサン、同上、p.6

「習慣」を嫌がる男でしたが、引き出しの整理整頓は長年、決心できなかったようです。

そうですね。これこそわかりやすい「消化」の例と考えられますね。

引き出しの中には、書類の他に、手紙や、「恋の思い出」とよばれるものがありました。
分類もされず、かといって捨てられることもなく、見返されることもなく、そこにあったのです。

引き出しの中身は彼の心を大きく揺さぶりました。親友、母親、付き合った女性たち、そして幼い頃の自分を、鮮やかに思い出させるものでした。

手紙に端を発してよみがえってきた思い出を前に、衝撃を受けた男はこう述べるのです。

私はこれでもう河の源まで溯ってしまったのだ。私は突然自分の残生おいさきのほうを見ようとして振返ってみた。私は醜い、淋しい老年と、間近に迫っている老衰とを見た。そして、すべてはそれで終りなのだ、それで何もかもが終りなのだ! しかも私の身のまわりには誰ひとりいない!

モーパッサン、同上、p,9

老い先を見るために「振り返る」という表現が気になるところですが、深追いはやめときましょう。

ここにきて、男は過去を「消化」できていなかったと考えることができます。

大学の歴史学の先生が「歴史家は後ろを向いた予言者だ」と言っていたことを思い出しました。
なるほど、ちゃんと認識された過去は、未来を見せるんですね。反対に、過去と向き合わない限り、将来はぼんやりしたままかもしれないと、そうも受け取れますね。

男は、やっと「老い先」を見ようとしたのです。この原動力は、偶然にも、過去を思い返したことに起因すると私は思います。

この意味で、「消化」されていなかったのは、男の過去だったと言いたかったのです。

その結果として男は死を選ぶのですが、その善し悪しは議論しないことにしましょう。



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