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異形者たちの天下第2話-6

第2話-6 葦の原から見える世界

 稲荷信仰はそのルーツを辿ると平安時代に行き当たる。
 狐神信仰と稲の豊作祈願がいつしか合祀され
「稲荷」
と変化したらしい。狐を眷属にしている荼吉尼天が転じたものとして、現在では商売繁盛の神として知られている。しかし商売のことも豊作のことも
「少しでも多く欲しい」
という欲得の延長線にある祈念だ。だから人間の欲望を如実に司る神として安易疎かにしてはいけない神仏が、この荼吉尼天である。
 そして当時の宗教観念からいえば
「外法」
として忌み嫌われていた悪魔の教えに等しかったのである。稲荷とはそれの隠れ蓑のようなものだった。
 江戸に稲荷信仰を奨励するより先んじて、荼吉尼天に対し、家康は京都に祠を献じる痕跡を標している。東山知恩院は法然ゆかりの古刹だが、家康は母・於大の菩提を弔わせ木像を寄進している。そして幕府を開いた頃、その境内の外れに祠をひとつ建立した。濡髪祠(現・濡髪明神)と呼ばれるそれは荼吉尼天を祀っている。母の菩提を弔わせた古刹にそれを祀るということは、答えはひとつしかない。
「母親を献じる」
道を選んだ。つまり荼吉尼天に、実の母親を生贄として捧げたのだ。更に家康は洛東真如堂に報恩と称して祭祠料百石を献じるとともに荼吉尼天を祀らせた。これが真如堂塔頭のひとつ法伝寺である。
 家康は酔狂で京東山界隈にこれらを祀ったのではない。恐らく東山に存在する阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓所を意識したに違いない。秀吉の霊的パワーを封じる目的もあったのだろうか。少なくとも尋常ではないほどの荼吉尼天への信仰の強さであった。
 
 師走二十三日、幕府はバテレン追放文を発令した。
 この起草は金地院崇伝のものだが、明らかに家康からの命令である。崇伝は駿府組閣のブレーンであり、彼の言葉は家康の意思とさえ云われる。
 まずは江戸から、その弾圧が始まった。徳川の家中ではキリシタンを一切禁じ、江戸城内に信仰している者がいたら
「改宗ないし厳罰させるべし」
と、家康は将軍秀忠に命じてきた。秀忠は一切の抵抗や嫌悪を口にすることなくそれを断行した。これによりキリシタン旗本・原主水などが処刑され、奥付侍女のおたあジュリアが伊豆大島へ流された。このような厳しい環境の中でただ一人、松平忠輝だけが
「彼らは何もしていない。可愛そうじゃないですか」
と逆らい、影から支援しようとした。忠輝自身がキリシタンであることを否定しているので厳罰には出来ない。秀忠はこのことを対処する才がないから
(知らなかったことにしよう)
と、問題先送りを決め込んだ。
 ソテロの去った浅草診療所も痕跡一切を遺さず破却された。その跡地にソテロを恋みて集っていた、多くのキリシタンも処罰された。もはやキリシタンであることが悪と、決めつけた風潮さえあった。
 師走二十五日、服部半蔵のもとへ
「手の者すべてを用いて江戸中のキリシタンを狩るべし」
という家康からの密書が送りつけられてきた。
「キリシタンよりも憂慮すべきは浪人の始末なり」
 手の者を用いてその日のうちに家康へ返事したところ
「烈火の如く怒り候え」
と報せが届いた。どうやらすっかりヘソを曲げてしまったらしい。まるで意固地の駄目押しのように、翌日、大久保長安事件の余波で肩身の狭い大久保相模守忠隣へ
「名誉挽回の機会」
として、家康は上方切支丹取締奉行を務めるよう囁いた。面目躍如の好機として、大久保忠隣は翌年正月五日に小田原を発った。このうえは何としても家康の期待に応えようと、忠隣は大いに発憤した。
 京都所司代・板倉伊賀守勝重は、イエズス会ならびにフランシスコ会のバテレンを捕らえて、長崎経由で帰国するよう処置していた。必要以上に西洋諸国を刺激しては危険という判断で、忠隣入洛前に処置していたのだ。しかし日ノ本の民が信徒となれば、この話は別である。板倉勝重はそちらの処置は知らぬ顔を決め込んだ。
 正月十七日、大久保忠隣は入洛した。そして着任早々、忠隣は京都の南蛮寺を二つ焼き討ちにした。と同時に、洛中は勿論畿内一円のキリシタン狩りも敢行した。その過酷を極めしキリシタン狩りに捕らえられた者は、夥しいものだった。忠隣はキリスト教信者一人ひとりを簀巻きにし、四条河原に引出させると
「ころべころべ」
と転がしたり、また山のように高々と積み上げた。苦痛を与えることで
「改宗」
を口にすることが狙いであった。
 が、信徒たちの意思は強靱であった。忠隣は簀巻きの俵ごと彼らを焼き殺した。夥しいキリシタンたちは業火のなかで苦痛を訴えるどころか
「天主の御許へ」
と口々に至福を叫んで死んでいく。大久保忠隣は内心恐怖していた。死ぬことが至福な宗教など聞いたこともない。キリシタンはこれを殉教と呼び、最も尊い行為としていた。
 そうこうしている間に、大久保忠隣にとっては青天の霹靂とも云うべき沙汰が幕府より下される。
「小田原六万五千石没収のうえ相模守の身柄は彦根預かり」
 正式な改易通告書だ。忠隣の京都行きは予め小田原接収の複線であったのである。無念であるが、忠隣はこれに従った。このことには家康も一枚噛んでいる。だから逆らう事は無意味であった。
 得したのは家康である。
 家臣ひとりが矢面に立ってキリシタンの怨みを引き受けてくれたのだ。それさえを無情にも切り捨てる非情さを家康は示した。確かに人徳を重んじ道理を唱えてきた三河の律儀者の姿はそこにはない。冷酷な専制君主と呼ぶべきか、豹変した人格破綻者というべきか、少なくともこれまで世間に向けてきた仮面を脱ぎ捨てたかのような
「まるで別人」
の如き変貌ぶりであった。 
 
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