見出し画像

洲﨑神社

木場ときいて、ああ、門仲のとなりの賑やかなところ、くらいの解釈をしてしまう21世紀TOKYO。
そもそも木場という地名を、想像して下さい。

江戸時代から材木の町として栄えてきたのが、木場

江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来するわけで、その名残の場に設けられているのが、木場公園。

江戸時代の日本では建築物はほぼ全て木造。
橋や船、道具なども木でできていた。このため大量の木材が必要であり、材木商人たちの中には巨万の富を築いた者も多かった。
よって深川の街は大変発展したわけ。

余談だが、架空設定で、「真潮の河(房州日日新聞連載作品)」で醍醐の荷下ろしと加工場が江戸付近(4代将軍の頃、まだ深川は江戸郊外で、江戸じゃない)に設けたことにした。こののち深川が発展する前の時代のことという、都合のいい場所だった。繰り返すが、架空設定ね。

橋の下を今も流れる仙台濠川。
江戸時代は、仙台濠ですね。江戸への水利として、イタリアベニスに匹敵する運河が江戸の経済を支えていた。醍醐の舟はここで小回りのきくものに荷を分乗し、日本橋河岸へと送られたという設定です。
それっぽくいってますが、
あくまでも、架空設定ですよ。

木場はいまもむかしも運河の名残と水から切り離せない街。

お社が水に浮かぶようだ。

洲崎神社。
元禄十三年(1700)護持院隆光大僧正のご尽力により、江戸城中紅葉山に五代将軍綱吉公の御生母桂昌院の守本尊である弁財天(弘法大師作)と稲荷社を祀り洲﨑弁天社と称した。五代将軍の頃からの隆盛ということは、初代醍醐新兵衛の時代はまだなかったということになる。

玉の輿の由来は、ここです。

ここは海岸に面した風光明媚な景勝地としてにぎわった。
明治時代の神仏分離によって、洲崎弁天社から洲崎神社と名を改める。
木場は、海岸に面し、いまの都会も元々は埋め立てられている。震災には恐そうな場所。

地下鉄東西線木場駅(木場5丁目)は海抜-0.2mです!

寛政三年(1791)九月の満潮時に大雨・暴風雨により、深川洲崎一帯は高潮による被害が発生した。そのため多数の死者や行方不明者がでている。
だから、洲崎神社には、それを伝える波除碑が建てられているのだ。

赤線といってピンと来ないのが現代っ子。隠したい性の記憶がかつてあったのも洲崎。1958年の売春防止法施行により消滅した「洲崎パラダイス」の跡はほぼなし。
旧吉原も江戸府内にあったわけで、今は見る影もない。
江戸も東京も、助べえなしでは発展しなかったのでしょうね。

下町情緒を探してみませんか?

その前に。
大雨が続いてますので、散策は晴れてからがオススメですよ👣