見出し画像

異形者たちの天下第5話-7

第5話-7 家康の正体

 こののち半蔵は佐助とともに伊勢から海路で薩摩に赴くこととした。すぐにでも江戸へ赴き、秀忠を殺してやろうと考えたのだが、家康の死んだ直後である。厳戒な体制を掻い潜ることは、むしろやり辛い。機会を窺うべきという左近の提案に従ったのだ。代わりに左近が江戸へ赴き仔細を伺うという。
「ならば」
と、半蔵は庄司甚右衛門という男を頼るよう申し出た。この者が風魔小太郎の仮初めの姿であることを告げたうえで、紹介状を書いて持たせた。左近が旅立つのを見届けると、三人は西へ向かった。途中、名古屋で阿国は別れ、薩摩へは半蔵と佐助のふたりが向かうこととなる。勿論、正攻法ではなく、ふたりの取った手段は
「密航」
であった。薩摩には豊臣秀頼と真田大輔信昌と、それを守護する真田忍軍がいる。彼らは殊更に天下を復そうなどとは考えていない。だから、これで戦乱の日々は終止符が打たれたといってよい。

 家康を殺すことで戦国が終わる……。

 半蔵の胸中は、未だ千々に乱れていた。 
 そして。
 家康のかくも無様な変死体は、蘇生したお六の悲鳴により本多正純の知るところとなった。天下を揺るがすこの大失態は、世間へ流布できるものでは決してない。やがて幕府はひとつの沙汰を公にした。
「大御所、天麩羅の食べ過ぎにて」
という病死説。これが流布され、諸大名も断じてこれを疑わなかった。
 事実、この変死の前には豪商・茶屋四郎次郎清次から天麩羅の献上があったし、俄かに仕立てた家康の影武者もそれを食べ過ぎて腹痛を訴えたから、でっち上げとしては上等の決着といえよう。

 表向きの家康の死は、元和二年四月一七日。享年七五歳とされた。

 家康が死ぬと、秀忠は狂喜した。
 これで目の上の瘤がいなくなったのだ。これからは自在に天下を好きに出来る。この爽快感は例えようもないものだった。その快感を真っ先に吐き出したのが、松平上総介忠輝の配流決定である。つまり罪人追放の宣言だ。こうすることで心おきなく、秀忠は才槌頭を手に入れて
「荼吉尼天に帰依することが」
できる筈だった。
 秀忠はこの期に及んでまだ気づいていない。無縁となった忠輝は、傀儡ら漂白民等に守られて、同族そのものと化したことを。いや、上ナシの彼らに担がれた唯一の旗頭になったということを。こうなってしまえば、もはや柳生を以てしても
「暗殺は不可能」
なのだ。
 七月五日、伊勢配流という沙汰とともに忠輝は野に下った。遠巻きにするように、漂白民たちは忠輝を慕うように随行した。道中にあたる在地の傀儡も、挙ってこの輪に加わり、伊勢に至るまでに夥しい数に膨れあがった。この事実を柳生宗矩から聞いて、秀忠は初めて事の重大さに気づいたが、今となってはもう手遅れだった。
 更に意のままに出来ると思った天下が、実は手に余る代物という事実も理解できた。秀忠の凡庸を嘆いた本多正信は、当てつけのように自害した。徳川の家臣がそういう態度に出ることなど、考えも及ばぬことであった。しかも政治向きでは南光坊天海が強大な発言権を持ち、何かと干渉するようになった。諸大名の信望は残念ながら秀忠より天海の方が上である。
「死した家康公は神として祀るべし」
 その発言を退ける政治力など、秀忠にはまったくなかった。
 徳川家康は東照権現という格式を得、その采配は天海が一手に担うこととなった。よもやこの創られた神が、荼吉尼天との約定で暗黒の冥府に堕ちて永劫の地獄を彷徨っていようとは、世の人々は知る由もない。
 長崎代官・村山等安。かつて家康が享楽に更けていた折、本多正純が用いた
「家康の名を用いた政務」
のときに許可した
「台湾渡航許可」
を逆手に取り、この年三月、台湾への侵略戦争を独断で開始しようとしていたことが判明した。すべては朱印船貿易を行う末次平蔵政直の密告によるものである。長崎奉行・長谷川左兵衛藤広は内密にこれを処理しようとしたが、間もなく幕府の知るところとなった。
 公になった以上は大事である。
 本多正純は己の失策を隠すために、村山等安の処刑を断行させた。また、彼がキリシタンであったことを利用し
「すべてはキリシタンの仕業」
と、罪をすり替えた。これが幕府におけるキリシタン弾圧の布石となったのは、いうまでもない。
 そして、公の密告者が、薩摩の真田忍軍や服部半蔵だということも、云わずがものであろう。

#創作大賞2024 #漫画原作部門