見出し画像

苗木城を制すると云う事

東美濃の有名な城と聞いて、真っ先に連想されるのが
岩村城
だと思う。

武田と織田の攻防戦が熱かった、女城主の城なんだから、
と・う・ぜ・ん です。
……という声が聞こえてきそうだ。

しかし!

国指定史跡「苗木城址」。
岩村城に負けじと劣らぬ名城である。

その形相の素晴らしさは、公式HPを参照!

天文24年(1555年)、木曾氏が武田信玄に降ると東美濃の情勢は一変する。この苗木城を支配する遠山氏は、斎藤道三と武田信玄を天秤にかけて与する先を思案していた。やがて斎藤道三が内紛で討たれると、俄然、南信州に基盤を固めてきた武田信玄の脅威が増す。

恵那の山や木曾の峠を武田勢が越えてきたら……勝ち目はない!

永禄8年(1565年)。
苗木城主・遠山勘太郎直廉の娘(織田信長の養女)が、武田信玄の子・勝頼の正室に差し出される。

このとき義信事件が生じたため、諏訪勝頼にも後継者の可能性が強かった。

仮に家督を継げずとも、諏訪大祝のトップとして、全国の諏訪神社の頂点に立つ勝頼は、メリットしかない存在だった。

木曾川の上流は遥かなる武田信玄の国。
苗木城が生き残る道はこれしかなかった。

 神箆城。
 高野城とも鶴ヶ城とも呼ばれ、土岐川西岸の山地にあって南東に張り出した尾根の頂部に主郭を持つ。まさに見た目が鶴翼の如し。ここを登る無益より、調略で切り崩す術があれば損耗を防ぐことが出来る。この教えは信玄のものというより、山本勘助によるところが大きい。秋山信友もまた、勘助に薫陶された一人だった。
 このときの対陣を記す史料は『信長公記』による。これを〈高野口合戦〉というが、実態は明瞭ではない。『甲陽軍鑑』にさえ記されぬこの小事、作者が二〇一五年に瑞浪市に照会したところ、やはり明確を知るに至らなかった。
 ただし、これは小さな局地戦でありながら、東美濃の支配を巡り武田・織田が直接の武力衝突に及んだ唯一の合戦であることは注目に値する。その合戦を短期収束させることが、美濃平定も儘ならぬ当時の織田信長を量る物差といえた。
 信長到着までの間、神箆城で指揮を執っていたのは、森三左衛門可成だった。森可成は美濃新参で、ここで功を挙げることが立身につながると、発奮していた。同じく飛騨から仕官した肥田玄蕃允忠政も城内にあって士気を高めていた。
「おっつけ御館様がくるずら」
 間道から信長が向かっていると知った両名は、自ら進んで城門を開き、精強で名を馳せた武田勢へ挑んだ。これはあくまでも陽動のためである。守りを捨てる無謀に走るほど、森可成は間抜けではない。
 信長入城の合図である鉄砲が響くと、森可成は撤退を叫んだ。この戦いで可成被官である道家清十郎・助十郎兄弟は武田方の頸三つを討った。士卒ではないが、名高き武田勢ともなれば、何物であっても手柄頸であった。城内で待つ信長は、森可成から兄弟の奮戦を聞いて喜んだ。
「お前ぁら、大手柄でや」
 信長は無地の旗を拡げると、〈天下一之勇士也〉とその場で書き恩賞として兄弟に与えた。
「だがな、戦うのはここまでじゃ。武田を本気にさせたら、滅ぼされる」
 信長の言葉に、一同は消沈した。短期収束の条件は和議だ。この一点にのみ、信長は全力を賭けた。存亡の分かれ道だけに、必死であった。
 信長は一族の織田掃部助忠寛を呼ぶと、これを和議の使者に立てた。武田勢が神箆城の内情を探り当てるより早く、信長の行動が一歩先んじた。思いもかけない和議の交渉に、秋山信友は迷った。攻める沙汰があっても、講和に関する権限は与えられていない。
「無視すりゃあ、いい」
 勝頼は和議に否定的だった。判断に迷った末、秋山信友は甲府へ使い番を差し向けることにした。信玄の采配を仰ぐ必要があった。そこへ、武田の使い番が駆け込んできた。なんと、信玄自ら木曽谷を越えて、こちらに向かっているというのだ。
「ありがたい」
 秋山信友は息を吐くように呟いた。その使い番に和議申入れのことを奏上あるべしと伝えて、信友は従来通りの攻撃姿勢を保持しながら神箆城を見上げた。
 信玄が向かっている。このことは信長の情報網にも引っかかった。その真意が殲滅の総仕上げか否かによって、信長の天運は左右された。生殺与奪の是非は、信玄の掌にあった。
(信玄入道がくる……!)
 信長もこの情報に戦慄した。
 戦力差は、これで圧倒的になった。信玄が乗り込んできた以上、東美濃を根こそぎ奪い取ることは容易な状況だ。講和の余地は断たれたと、信長は思った。
 ならば戦うべきか、意地でも講和に縋るべきか。
 信長は、窮地に立たされた。
 信玄は馬籠の先、苗木城を見通せる山腹に布陣して、秋山信友と勝頼を呼んだ。この期に及んで軽挙な行動を執る信長ではないだろう。
 信玄の肚は定まっていた。多くの間者を放って、神箆城の動きを冷徹に見定めていた。間者の報告を武藤喜兵衛が取り次いだ。信長は動く気配を見せていない。しかし、視認できる範囲で、城の防備は万全のようだ。特に、多数の鉄砲の存在を間者は察知していた。恭順するでもなし、この油断なき態度に、信玄は好感を抱いた。
 秋山信友は信長の使いである織田掃部助忠寛という人物と、直接対峙している。使い番の所作が、その主君を量ることを信玄は知っていた。
「どのような男だ」
「腰が低く、言葉を選ぶような者にて」
 主が主なら、家来も家来だ。弱小と侮ることは危険な臭いがした。反面、経験の浅い勝頼が抱いた印象は、相手を軽んじるものだった。この未熟な倅の意見こそ、世間が見ている織田信長評そのものだ。この侮りがあればこそ、今川義元ほどの者でさえ討たれる起因といえよう。
「和睦の申し出は受けよう」
 信玄は呻くように呟いた。
              NOVLEDAYS「光と闇の跫(あしおと)」
              第9話 義信事件(後)  より抜粋

勝頼の正室となった遠山氏の娘は、嫡男・信勝を生んだが、早世した。
そのため遠山氏の背後にいる織田信長は、急いで嫡男・信忠と信玄息女・松姫の縁組を整えて、争わぬ態度に徹底した。
苗木城が武田カラーを払拭し織田100%になったのは、天正10年(1582年)。甲州征伐の前哨戦である。南信州に攻め込む以前、表の武田滅亡史に登場しないドラマが、苗木城にはあったのである。とはいうものの、岩村城が陥落して以来、表向きは信長の顔色を窺っていたことは想像に易い。

皆様も絶景を眺めに、
一度は足を運んでみることをオススメする!


参考としたNOVLEDAYS掲載小説「光と闇の跫(あしおと)」は、定説といういい加減な解釈を払拭し、丹念に、状況や現況を極力歩き、「=小山田信茂逆臣説」にメスを入れた意欲作。無論、これまでの定説に真っ向から切り込みながらも、歴史的結果を否定せず、丁寧に描いた長編小説。
温い大河ドラマに嫌気がさした方は、ガツンと歯応えのある本作をお楽しみ下さい。

クリック⇒ NOVLEDAYS掲載小説 「光と闇の跫(あしおと)」


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所