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小山田信茂考

この写真を見て気がついた方は、通。

旧笹子峠です

江戸時代の「甲州街道」として整備された規模が、この程度。
戦国時代はノーインフラ。人の幅ギリギリの獣道、つまり人の通れる場所ではない。狼煙台として以外の笹子峠の利用価値はございません。
大河ドラマで、小山田が裏切ったぞ~の場面は、いつ観ても茶番劇に映えます。小山田領の郡内と国中の境界は、東に下った初狩番所とされます。そう、笹子峠は武田領なのです。

みんな、甲陽軍鑑に毒されていませんか?

涙の森

江戸時代に甲州街道を整備してから現代まで、江戸(東京)と甲府を結ぶ幹線は「中央自動車道」「中央本線」「国道20号線(甲州街道)」です。江戸時代のベストセラー甲陽軍鑑が、江戸目線で描いたとすると、当時ありもしない道路を記し、読んでいる人も疑いなく刷り込まれてしまう。
郡内国中の幹線道路は律令の時代から戦国まで一貫して、御坂路です。

つまりこの御坂路から河口へ行くのがメインストリート

この話題はいつか別の機会に。

小山田信茂を裏切り者と云う定説に縛り付けていることに、疑問を抱く方がどれほどおられるか。そのことこそ、重要なのです。

だいたい真田昌幸の岩櫃城へ行くと決めたのに、なんで岩殿城へ?

猿橋と岩殿城

小山田が誘ったから
と考えもなしで定説論者は決めつけます。ハッキリ云って、小山田は来てもらって迷惑だと思います。勝頼を迎えると、もれなく敵の大軍もセットで付いてきます。
この単独峰で補給路のない岩殿城に籠城したところで、何が出来るというのでしょうか。
備蓄はどうでしょうか。
援軍は誰でしょうか。

何ひとつメリットのない籠城です。

景徳院

勝頼滅亡の地、田野。ちなみに天目山はもっと上流のお寺の山号であり実際の山じゃありません。この景徳院脇の道は、笹子峠ほど険しくありませんが追分から郡内に至る道です。
ここから岩殿城をめざして、田野で追いつかれてゲームオーバー……と考えるのが自然と思うのですが、どうなんでしょう。

そして、岩殿城が小山田じゃなく武田の城だったとしたら?

岩殿城

猿橋の写っている岩殿山の写真を御覧になれば理解できる筈。
岩殿城は、もともと対北条氏綱の備え城です。
有効に機能したのは、そちらに向いているとき。天然の河川の濠も大いに有効です。
信玄の父・信虎時代は武田と小山田は係争中。対北条で利益を一致させて和睦したのです。和睦の証として婚姻関係で結ばれたというのはよくある話ですが、岩殿城が武田の派出所のような大使館だとしたらどうでしょう。麓のあった円通寺に残された人物の序列は、信虎の弟・勝沼信友が小山田信有の上位にあります。

それに
大月じゃなく谷村が小山田の本拠地です。
岩殿城は遠すぎて後詰にもならない。

谷村館跡

小山田家をとりあえず悪いところにしておけば、勝頼に背いた武田親族や重臣たちにとって、都合がよかったのではないでしょうか。

岩櫃城は武田の城だから推参したとするならば、岩櫃ドタキャンの根拠にもなりますよ。


今の時代ですから、変な波風にはするつもりはありません。しかし、考えずに鵜呑みにするのは危険。声の大きい人がいうから考えないで信じ込む。大東亜戦争で多くの日本人がそうなってしまったことは、忘れちゃいけません。

疑う処から、歴史に向き合えることがある。大事なことなのです。

甲陽軍鑑なんて、そもそも史料じゃなくて軍学書。二次小説ですから。

小山田信茂の首塚

郡内では、戦禍から守った名君として信茂を称えているんです。

「光と闇の跫(あしおと)」小山田信茂の物語。
小説なんてと云えばそれまでですが、完成まで、構想含めて資料徹底も込み込みで10年は費やしました。途中、山梨東部・富士北麓の新聞折込誌フジマリモのエッセイも挟まって、地域の皆様に小山田氏のことを知っていただきました。

その小説、膨大過ぎて書籍にできず、とりあえず誰でも読めるようにNOVLEDAYSランキング|NOVEL DAYS (daysneo.com)
に発表しております。
大勢の方からアクセス頂いており、感謝してます。

定説は、疑うところからスタートしよう。

小山田信茂公顕彰会。

いま一番HOTな定説払拭の団体です。夢酔も末席に参加しています。
小山田のことは風呂敷が大きいから、いずれ小出しのテーマで皆様に語りたいと思います。