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河口御師の肖像

富士山信仰を支えた存在が御師。中世以降、富士山周辺に御師の集落があり、甲斐国郡内の主力は吉田宿の吉田御師、河口駅の河口御師である。
吉田御師は、時代の変化とともにその場所に留まりながら、講限定宿舎や喫茶店、廃業と、スタイルを変えていった。従来の御師+民宿を保つのは、もう限られた場所だけである。

河口御師のいま。
やはり、吉田のように街ごと観光スポットに出来ない部分もあり、多くは廃業も余儀なくされたことだろう。
御師梅谷。河口12坊のひとつ。現在残る建物は安永年(1776年)に建てられたもの。

御師の拠り所である河口浅間神社
神楽「稚児の舞」は今日も奉納舞として存続しています。
神社や、神気などにうるさい方、ここの神社は格別。圧倒される事まちがいなし。

江戸時代、河口浅間神社は北口本宮と呼ばれた。江戸時代以前は、甲府や信州・信濃・上野(全部武田信玄の支配下だ)などからは、御坂峠を越えて富士山の玄関口である河口を通って登拝していた。必然的に河口御師や浅間神社は通過する場所になる。河口浅間神社が北口本宮と呼ばれ、信仰の玄関口になるのも当然といえます。船津口登山道が使用されました。
吉田の御師や、現在の北口本宮富士浅間神社が吉田口登山道起点になったことと、どうやら対を成すようです。

御師の家 梅谷

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「御師の家 うめや アネックス」UMEYA ANNEX として、
外国人にも人気の様子。

時代とともに、河口御師が大きく復権する日も近いと信じております。


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