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象山 しょうざん ぞうざん

幕末の有名な人物のひとり、佐久間象山。
天才と狂人は紙一重という、現代的な表現の枠組みを超えた、幕末の超人。

松代藩では、ぞうざんと呼ばれているが、世間一般のドラマでは
しょうざんと呼ばれています。

1811年、佐久間一学の長男として誕生。象山は3歳で文字の読み書きができた非凡の才を持つ。喧嘩早い勝気な性格だった。15歳で元服、松代城主 真田幸貫に会い藩の儒学者鎌倉桐山の私塾に入る。
1834年、江戸佐藤一斎の塾に入門。渡辺崋山や藤田東湖等と親交をもつ。
数年後に松代に帰藩し経書や漢字を教え始める。
この頃に号を象山とする。

象山という小山が松代にある。
号は、ここからというのが地元説。
だから松代では「ぞうざん」さんなのだ。

1840年、神田お玉ヶ池に象山書院を開き多くの門下生を輩出。
1843年、藩主・真田幸貫、老中の海防顧問として海防八策を幕府に上申。
1847年、湯田中・沓野・佐野の利用係として開発に尽力。大砲・電信機等の製作・実演。
1852年、江戸木挽町に塾を開く。ペリー来航による国論沸騰時、軍議役として横浜警備にあたる。開国論を唱え横浜開港を主張。

その後。
弟子の吉田松陰が下田で黒船に密航しようとした事件に連座して投獄される。そののち、松代に蟄居。高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れたとされる。
この場所に、だ。⤵

佐久間象山の門下生は、ざっくりと以下の通り。

勝海舟(ついでに妹が象山妻なので年若い義兄にもなる)
吉田松陰(松下村塾門下生に、その後の方針を運命づけた)
小林虎三郎(吉田松陰と共に象門の二虎と呼ばれた武士、教育者)
宮部鼎蔵(吉田松陰の友, 池田屋事件で死亡)
河井継之助(長岡藩家老として北越戦争で薩長に報いた)
加藤弘之(後の東京大学総長)
坂本龍馬(土佐脱藩)
橋本左内(福井藩士)
真木和泉(久留米藩士)

幕末の尊皇攘夷運動に挺身した者もいれば、開国開明に転じた者もいる。どちらも佐久間象山の影響であることは、間違いない。

無論、新選組の近藤・土方も、一人物として、認識をしていたようである。

が。

元治元年(1864)7月11日午後5時前後、高瀬川の三条小橋がある路上を馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われ暗殺された。

幕末の数多いた知識人。生きて維新を迎えたら、誰もが近代日本に異才を放ったことは間違いない。藩や思想や勤皇佐幕の境を越えて、個々の人材にとって、遠からず関与あるいは影響を施したのは、紛れもない佐久間象山でしょう。

その佐久間象山が暗殺されたことで、倅が数奇な運命を辿ったことも知られざる一面。

三浦敬之助。どういうわけか、父の仇討ちのため新選組に……!
象山の弟子・山本覚馬は、新選組なら本懐を遂げられると息巻く。
勝海舟はさっさと抜けられないかと気を揉む。
松代藩では象山嫌いの藩主のせいで表立って動けない。
屈折した感情しか持たぬ息子は、父のために何をするというのか。

電子書籍「新選組婉曲録」(インタープレイブックス)の一篇に収録。