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龍馬くじら飯 episode2

 第2話 江戸 1862
 
 坂本龍馬が土佐を脱藩したのは、文久二年(1862)のことである。向かった先は江戸の千葉道場。龍馬はこれまでに二度、千葉道場で学んだ。頼れるところは、他になかった。
 千葉道場の主である千葉定吉は、鳥取藩の剣術師範役を負い、二年前には子・千葉重太郎が父に代わり仕官していた。当時の鳥取藩は、水戸斉昭の五男が養子となり藩主になったものだから、尊皇攘夷の家風。外国かぶれを大いに嫌う風潮だ。少なからずとも、重太郎にも影響はあり、大いに毒された。
「勝つう 男が居てだな、龍さん」
 重太郎は外国かぶれの害悪ぶりを大いに語った。居候の身だ、聞きたくない事にも相槌を打つ義理はある。
 実は、龍馬は一度だけ、人に付いていき、勝という男を見ている。向こうも一介の面会者という風で、言葉も交わさず意思も質さず終い。それっきり、だ。
 そんなことを重太郎に云えば、誤解される。黙って悪口を聞いているうちに、すっかりと盛り上がってしまい
「その、勝いう奴を、斬ってしまえばえいがやろう」
「さすが龍さん、話が早い!」
「それじゃあ、しゃんしゃんやろうか」
 人斬りの真似は、正直にいえば、やりたくない。しかし、居候の身ならば、好きだの嫌いだのと云えた義理ではなかった。重太郎は、自分の他にも腕の立つ者として、龍馬に思いを打ち明けた上で協力を仰いでいるのだ。相当な覚悟なのだろう。今の龍馬に、これを断れる理由はない。つまり、勝という外国かぶれの男は、相当、腕に覚えがあるのだ。二人がかりの勝算を仄めかしているのだとも受け取れた。そうでなければ、とっくに重太郎はその者を斬り捨てている。
 こういうとき、龍馬には唯一の武器がある。
 無策。これこそ予測もない、変幻自在のことであり、殺意すら持たぬのだから相手の懐深くにだって入り込める。先ずは、先入観を捨てて相手の考えを聞き、理解し、そのうえで自分の思惟を決するのだ。底抜けの度胸か、間抜けか、どちらかでなければ出来ぬ芸当だった。
 勝麟太郎という男。二丸留守居格軍艦操練所頭取という肩書でありながら、無役御家人上がりの苦労人。とかく世の中の窮屈が嫌いな変わり者だ。
 師走二九日、千葉重太郎と坂本龍馬が勝の家を訪問した。勝は、龍馬の顔を覚えていたから、天下の千葉先生同様に招き入れた。
「実は、勝様を斬りにきたがじゃ」
 唐突な申し出だ。むしろ唐突過ぎて、千葉重太郎こそ動揺した。
「黙って斬られるのも面白くねぇぜ。じゃあ、斬る前に、その理由を聞かせてくれ」
「西洋かぶれと、そこいらで聞いた」
「それだけで斬られりゃあ、たまったものじゃねえ」
「ほんじゃあきに、どいて西洋かぶれなのかを教えて欲しい」
 龍馬の殺意なき刺客っぷりは、拍子の抜けたものだ。しかし、勝麟太郎は、どうして西洋を学ばねばならぬかを、淡々と説いて聞かせた。千葉重太郎にしてみれば、妙な流れでどうしたものかと、戸惑うばかりだ。挙句、龍馬はその意をしっかりと聞いたうえで
「御口舌、たしかに承ったき」
 そう云うなり、何もせずに辞した。慌てて龍馬を追う重太郎は、斬らないのかと激しく捲くし立てた。龍馬は涼しい顔で、返り討ちに遭ってしまうと笑った。このとき龍馬は勝麟太郎が直心影流の腕前であることを知らない。
 年が明け、龍馬は決意した。
「若先生、儂は決めたき。勝様の弟子になろうか思う」
 千葉重太郎は仰天した。口上のこと、よくよく考えれば、異国から学んで自国を守ることと、攘夷は同じようなものではないか。
 呆れたものだが、龍馬の憎めない笑みに、重太郎も毒が抜けた。
「龍さんなら、そう云うだろうな」
 どこかで、そんな気がしていたから、自然に頷いた。
 勝麟太郎も同じだ。どこかで、龍馬を受け容れている自分を感じていた。年が明けて、ひょっこりと弟子入りを求めたときも
「ああ、いいよ」
と、考えもなしに頷いてしまった。土佐の脱藩浪士、ただの野良犬だが、どこか秘めている部分がある。そいつを磨いてやろうと、勝は思った。
 それにしても、勝家の居候に変わっただけで、龍馬は江戸で肩身が狭い。雑巾がけも進んでするが、それくらいでは暇も潰れぬ。で、たまには変わったものを食わせてやろうと勝が連れて行ったのが、鯨を食わせてくれる店だった。
「鯨は好物じゃ。千葉道場のすす払いの後で鯨汁をすすった以来、とんとご無沙汰じゃったねや」
 龍馬は大喜びだ。
「ここの鯨は、安房国から江戸湾で運ばれた、江戸前だぜ」
 勝の言葉に
「こりゃあ、たまるか」
と、遠慮なしで飯を掻きこんだ。いい食いっぷりに、思わず勝麟太郎も頬が緩んでくるのを覚えた。
「勝先生、山鯨ってのは、山にも鯨がおるがやろうか」
 ぶっと、盃を噴き出して、勝は笑った。知っていて態と笑わすものか、この人畜無害そうな土佐っぽに、勝麟太郎は愛着を覚えていた。遅れて店に来た勝の知り合いは、龍馬を見て、思わずギョッとなった。
「土佐で会うた人や」
 彼の名は、中浜万次郎。河田篤太郎(小龍)と飯を食っていたときの、あの妙客を、彼は忘れてはいなかった。

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