見出し画像

《潮騒》嵯峨野小倉山荘色紙和歌異聞~五十二の歌~

《潮騒》原作:藤原道信朝臣
寝ても覚めても、明けても暮れても
アンタのことばかり……。
須磨の浜辺で一人想う。
「お姉ちゃん、泣いとんの?」見知らぬ男の子が覗き込む。
「ううん、泣いてへん。なんでもあらへん」
ウチは立ち上がって朝靄の海峡を見やった。
……夏の海、笑顔は似合わへん。

<以下、物語>
式子「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな。夜が明ければやがて必ず日が暮れる。それと同じ。あなたに会える日のあまりの嬉しさに心舞い踊る。でも、不意に愉悦する自分の影を踏めば、必ず別れなくてはいけない夜明けの悲しさを思い、泣き崩れてしまう私。……時は人を追うものなのですね」
 定家は色紙を手にして、月明りに朧に浮かぶ庭園の水面を眺める式子の横顔を見ていた。
 何事も絶頂を迎えれば、後はただ下るばかり。今の自分も頂きに立ってしまったのかもしれない。こうして式子と二人、袖も触れ合わんばかりの身近さで言の葉を交しあっているのだから……。定家はその事実に慄いた。
「あっ、蛍が」
 式子の嬉し気な驚きの声。池の水際の叢に蛍が舞っていた。式子の声音は驚くほど柔らかく甘く、そして、心地よく響く。定家は、その深い瑠璃色の声を耳元で聞いてみたい、と思った。そうすれば、囁きは頭の中で定家の想いと混じり合い、愛の密語を告白させるに違いない。辺りに他に人はいない。式子と定家の二人だけの夜だった。
<続く> 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?