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「北越雪譜」を読む:17

 鈴木牧之ぼくしという人は、大変熱心で真面目な人柄だったと思われるが、一面、「空気が読めない」ところもあったのではないかと思う。あくまでも、「 」付きだが。
 頑固に一途に、40年も「北越雪譜」の出版を諦めず模索し続けた、その空気の読めなさが、結果的に夢を実現させたと言っても良いのではないだろうか。

 さきのとし玉山翁が梓行しかうせられしいくさ物語の画本の中に、越後雪中にたゝかひしといふ図あり。文には深雪みゆきとありて、しかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵ぐんぴやうどもが挙止ふるまひを見るに雪は浅く見ゆ。(越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや、しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也、したがふて画者も誤れる也、雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也))…

北越雪譜 初編 巻之中
玉山翁が雪の図

…先年、玉山翁が出版された軍記物語の画本の中に、越後の雪中で戦ったという図がある。文には深雪とあって、しかも十二月(旧暦)のことなのに、描かれている軍兵たちの振る舞いを見ると雪は浅く見える。
(越後の雪中では馬はまともに歩けないので、農民たちは雪中では牛馬を使わない。それなのに軍馬を使うわけがあろうか。それを馬上の戦いとして記しているのは作者の誤りで、したがって絵を描いた人も間違えた。雪が浅い国の人が描いたので、雪の本当のところを知らないのは、仕方がないことだ…)

 牧之は、山東京伝との間で出版に向けたやり取りをしていたが、それが頓挫した後、かねてより親交のあった大阪の画家・岡田玉山に協力を持ちかけている。玉山は牧之から原稿を受け取り、出版を快諾するのだが、翌年に亡くなってしまう。
 ちょうどこの頃に書いたと思われるのが、「玉山翁が雪の図」の項だ。

 岡田玉山が絵を担当した軍記物語を読んだ牧之は、雪中の越後国で馬に乗って戦っている絵を見て、これは越後国の本当の姿とは甚だしく違っている、と思った。至って公平に、絵というものには嘘も混ぜなくては見にくいこともあるけれど、とも書いている。
 しかし、あまりにも違うので、「玉山の玉にきずあらんもをしければ」と、文通をしていた心やすさから、本当の雪の姿をいくつも絵にして、普段見られないような景色もわざわざ雪の三国峠などに自ら足を運んでこれも絵に写し取り、玉山に送ったという。

 本職の画家に、間違ってますよというだけでは飽き足らず、自ら絵を描いて送る。
 なかなかの強心臓だと思ってしまうのは、現代の感覚なのだろうか。
 写真もなく、移動も簡単ではない時代、離れた土地のことを知るには、その土地に住む人に教えてもらうしかない。牧之自身も、多くの人との文のやり取りを通じて、日本各地のことを知ったのだろう。
 玉山も、牧之から送られた絵を大変喜んだらしい。

…玉山翁が返書に、北越の雪我が机上にふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらの図をなほど多くあつめ文をそへさせ私筆にて例の絵本となし候はば、其書雪の霏々ひゝたるがごとく諸国にふらさん事我が筆下に在りといはれたる書翰、今猶牧之が書笈しよきふにをさめあり。この書ならずして黄なる泉に玉山をしずめしは惜しむべし惜しむべし。

玉山王が雪の図

…玉山翁からの返事には、北越からの雪が私の机の上に降りかかるようで驚かされた、これらの図を集めて絵本にすることが叶ったら、その本を雪が降りしきるように諸国に降らせたい、そうなるように力を尽くそう、と書かれていた。その手紙は、今も私・牧之の文箱に入っている。
 この本が実現する事なく、黄泉よみの国に玉山翁が行かれたことは、大変残念なことだ。…

 牧之からの手紙が机の上に雪を降らすようだった、本を雪が降るように諸国に広めたい、という玉山の言葉も素敵だが、玉山が亡くなったことを、黄なる泉に玉(山)が沈むと表した牧之の表現も洒落ている。

 繰り返しになるが、「北越雪譜」は出版まで40年かかっている。

 鈴木牧之記念館発行の冊子「そっと置くものに音あり夜の雪 鈴木牧之」内の年表によれば、山東京伝と出版を巡る交渉を始めたのが牧之28歳のとき。
 その後、費用が嵩むことが告げられ一度断念。翌年岡田玉山の協力が得られそうになるが、まもなく玉山が亡くなり、数年後、今度は江戸の画家に依頼するがまたこの人物が亡くなり断念。
 40代の終わりころ滝沢馬琴と交渉を始め、山東京山が具体的に動き出すが、途中馬琴と京山の仲が悪くなり中断を余儀なくされる。この頃、牧之はすでに60代になっている。
 京山が出版を推し進め、いよいよ現実になろうとする頃、本の題名をめぐり、また馬琴と京山が揉める。
 ようやく刷り上がった「北越雪譜」が越後の牧之のもとに届いた時、彼は68歳になっていたのだ。
 途中、牧之は難聴になり、出版直前には脳卒中も起こしている。

 牧之の身近な人々、越後の文人たち、出版を依頼した江戸や大阪の文化人たち、その周りの人々。
 彼らのうち少なくない人が、もう諦めたらいいのに、と思って牧之を見ていたのではと想像する。
 しかし、若い頃から各地の文人と親交を結び広げた人脈が、牧之を諦めさせず次の一手を打たせたことは確かだろう。
 岡田玉山に、雪の描写が変ですよと臆せず伝えたからこそ出版の協力が得られ、本にしたいと言ってもらえたことは自信にもなったに違いない。

 これだけ苦労していながら、どうもほとんど自費出版だったようなのだが(牧之は経費として五両支払っている)、人気の作家でもない限り江戸時代の出版事情はこんなものだったのだろうか。
 出版された「北越雪譜」が大ヒットとなった時、早い時期から関わっていた山東京山はどんなことを思ったのだろう。
 へこたれなかった牧之に感謝したのか。
 早く出してやればもっと儲かったかなと思ったのか、とこれは意地悪すぎる見方かもしれない。
 どちらにしろ、今の私たちが「北越雪譜」を読めるのは、鈴木牧之の空気の読めない一途さと、山東京山のおかげである。

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