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「北越雪譜」を読む:2
自分には少し難しいかもしれない本を読む時、いきなり本文に取り掛からないで、外堀からじっくり攻めて行くことにしている。
帯の惹句を読み、裏表紙のあらすじを読み、著者や訳者の略歴を読み、前書きを読み、目次に目を通し、後書きを読み、解説を読む。どれもざっと読む程度に。
新刊なら、挟まっている「今月の新刊」みたいなペラにも目を通す。今から読む本がどう紹介されているか、それから、他の全く関係のない新刊や好評既刊に面白そうなものがないかもチェックする。
助走のような、息を整えるような時間だ。
ネットのレビューを改めて読んでみることもある。
言ってみれば、あえて十分に予断を持って、その本を読み始めるのだ。書いた人やすでに読んだ人の知恵を借りて、自分の読書のガイドとさせてもらう。
本読みの手だれは、とっくの昔からそうしているそうなので、当たり前でしょ、と言われてしまうかもしれない。
自分はそういう読み方をしておきながら、矛盾しているが、もしこれから「北越雪譜」を読んでみようかなと思っている人がいるなら、ぜひ、いきなり本文から始めて欲しい、と言いたい。
理由は二つある。
一つは、文章が難しくないので、きっと読めるから。
もう一つは、作者以外の人がみんな、やけに深刻なムードで「北越雪譜」を紹介したがるからである。
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まずは、読みやすさについて。
以下は本文一行目である。
凡そ天より形を為して下す物○雨○雪○霰○霙○雹なり。
「地気雪と成る弁」
現代語訳はいらない。読んでそのまま理解できる。このあと、「雪の形」という次の章まで、当時の知見に基づいて、何故雪が降るかを始め、身近な気象についての解説が続く。現代の科学からすれば間違った記述もあるが、科学読み物らしく、平明で飾り気のない表現だ。
「北越雪譜」が出版されたのは江戸時代後期、今から180年ほど前の1837年のこと。出版までに紆余曲折あって、鈴木牧之が書き始めてから40年近くも年月が経っていたが、それでも200年ほど前だ。
出版から30年後、江戸幕府は瓦解する。
高校の時から使っている世界史の図説を開いてみると、ゲーテが「ファウスト」を書いたのが1831年、「ロウソクの科学」のファラデーがファラデーの法則を発見したのが1833年、モールスが有線電信機(いわゆるモールス信号)を発明したのが1837年。
結構、最近のような気がしてくる。
江戸時代と明治維新以降では何もかもが変わってしまったように思われがちだが、話し方や書き方が急に変わったわけではない。
現代とは知識に差があるように思えるかもしれないが、今の私たちが、何故雪が降るか、何故天気が変わるかを正しく説明出来るだろうか。
「北越雪譜」を読んでいると、江戸時代がそう遠くないように思えてくる。
同じようなことに興味を持ち、同じようなことに憤りを覚え(牧之は時々、プンプン怒っている)、何かを伝えたいと思って文章を書いている。ストレートに伝えたいから、技巧的な表現はしない。
その結果、今の私が、考え込まなくても読めてしまうのである。
私が学生の頃は、まず習う古典といえば、春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは…。「枕草子」を改めて読んでみると、さすがは清少納言、知識の塊で、才気の塊、短い文章でも意味をとるのが難しいところがある。私の知識に問題があるのかもしれないが、思ったより難しいというのが、大人になって改めて思うことだ。
古典の授業が始まる前、小学生の頃には百人一首に出会っている。一つ一つは三十一文字と短いが、日本が誇るこの短い詩は、読み手が技巧を凝らす場であった。
小学生にとっては、丸覚えするもので、日常からは少し離れていると言えるだろう。
古文といえば、ありおりはべりいまそがり、英語と同じように文法を習わないと読めない、理解できないと、私たちは思わされている。
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現代においても、大河ドラマや、海外の時代ものの映画や、たぶんアニメでも、古文を彷彿とさせるような大仰なセリフが語られることがある。
殿様やサムライや、王様やお姫様や騎士のセリフとして。
天も又気を吐て地に下す、是天地の呼吸なり。
「地気雪と成る弁」
何だかちょっとカッコいいセリフのようではないか。
雪が降って風流だなどとほざいているのは暖かい国の人だからだ、と牧之が怒っているところはこんな感じだ。
我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば何の楽き事かあらん。
「雪の深浅」
毎年何メートルも雪が積もっているのを見て楽しいわけあるか、と怒っている。
雪害は、今も昔も深刻である。雪おろしの事故や、雪の中で立ち往生してしまった車の列のニュースが毎年あるのを見れば分かる。
今は新潟に来ないでというネクスコ東日本の警告、荷物の受け入れできませんと表記されたヤマト運輸のホームページ。
暖かい地域に住む人間が想像できることは限られるが、物流が止まることの深刻さが、一番リアリティを持って理解できることかもしれない。
簡単な文章だから読みやすいのではなく、確実に今と繋がっているから読みやすい。
遠く隔たったように思える古の人も、私と同じようなことを考えていたんだなあ、という感慨とはまた違う、物知りの親戚のおじさんの若い頃の話を聞いているような感覚である。直接は知らないけど聞いたことあります、と相槌を打ちながら聞いているような。
「北越雪譜」の読みやすさは、そういう読みやすさだ。
解説はいらない。たぶん私の文章も読まなくて良い。
いきなり本文から読み始めても楽しめてしまうのが、「北越雪譜」である。
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「北越雪譜」を取り巻く「深刻なムード」については、また次回。
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