「北越雪譜」を読む:5
さて、雪が降り始めたら、越後国ではどうしていたのだろうか。
鈴木牧之は、『雪を掃ふ』の項で、こう書いている。
雪をはらうのは、花が散るのと並んで風雅なものの一つとされ、日本でも中国でも詩歌は沢山あるけれど、こんな大雪を片付けるのは風雅なんてものではない…。
いつものように、牧之さんは暖国の私たちにカウンターパンチを食らわした後、越後国の実情を教えてくれる。
初雪が降って積もったのをそのままにしておくと、次に降った雪が加わってあっという間に3メートル以上になりかねない。
それで、「一度降れば一度掃ふ」というのが当たり前だったようだ。この辺りは、現代でも同じなのだろう。
一般的に雪掻きということが多いが、「北越雪譜」の中では、土を掘るようだから「これを里言に雪掘といふ」とある。
雪を掘る。
いかにも深く、高く積もった様が想像できる。
掘った雪は、空き地の、邪魔にならないところに山のように積み上げた。これを「掘揚」と言い、庶民は一家総出、お金持ちの家は人を雇っても掘ったそうだ。
終日雪を掘ったその夜大雪が降って、夜が明ければまた元の通り。
ここでひとつ気になるのは、掘った雪を、空き地の邪魔にならないところに山のように積み上げたという記述だ。
編集者でもある京水の筆になる挿絵を見ても、まさに山のように雪が積まれている。梯子をかけてさらに高く積もうとしているのか、雪の山の高いところにも人がいて、作業をしているらしいのがわかる。
邪魔にならない空き地といっても、人里離れたところに運び出すわけではなく、すぐ近くで人々が生活している町中のようだ。
積み上げた雪の山の側面を洞のようにくり抜いて、お店を出している人もいる。よく見ると魚らしいものが吊られている。売る人は寒いだろうが、魚は天然の冷凍庫に入っているようなもので、鮮度を保てる。
大雪でもへこたれない越後の人の逞しさが見て取れる。
高田城近くに雪の深さを知らせる雪竿が立てられたという話を、前回した。
暖国の人たちが想像する雪深い土地といえば、人里離れた山奥、現代でいえばスキー場のようなところをイメージするのではないだろうか。
たとえば、滋賀県の伊吹山(1377メートル)は、一度の降雪で11メートル以上積もるという記録を持っているほどの豪雪地帯だが、これだけ積もったのは、雪が吹き溜まる地形が関係したようだ。
しかし、高田城は平城で、あたりは平らな土地だし、私が訪れた塩沢、鈴木牧之記念館のあたりも平らな土地だった。
殿様の住む城下町は住民の多い繁華な町だったはずだ。鈴木牧之は、高田に住む友人から、一丈以上も雪が積もったと手紙をもらっているくらいだから、積雪のある真冬にも郵便網が生きていたのだろう。専任でなくとも、少なくとも、町と町を行き来する人がいたのである。
そんなこと当たり前でしょ、と怒られてしまうかもしれない。
しかし私は、牧之が残したかったものは、雪の中の苦しい暮らしのことばかりではなくて、雪の中にお店を出したり、手紙のやり取りをしたり、生き生きと冬を乗り越えようとする越後の人々の姿だったのではないかと思うのだ。
これまた当たり前でしょ、と言われてしまうのかもしれないが。(誰にも咎められていないのに、言い訳がましい…)
次回は、雪掘りに使った道具のことを考えます。
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