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「春望」 「春暁」 「学而」 「偶成」

春です。
そこで、誰も知っている「漢詩4篇」といきましょう。
世相は、決して「明るい」とは行ききれませんが「不安」「恐怖」「虚無」の闇の中から解放されて、はばたく春が来たのです。

いつもの通り、桜の花は咲き、木々の「新緑」は逞しく伸びています。
冬の寒さの中で、生命を繋ぎ、耐えて強くなった樹木に花が咲くように
夢と希望と愛のエネルギー」の持ち主であり続けましょう・・・。

歴史を振り返ると、人類は幾多の困難を乗り越えて「時代を紡いできた]
のです。それでは、杜甫の『春望』から入りましょう。

1 春望  杜甫

        国破山河在  城春草木深  感時花濺涙  恨別鳥驚心
        烽火連三月  家書抵萬金  白頭掻更短  渾欲不勝簪

誰もが知っている有名な「唐の詩人 杜甫」の詩ですね。
中学校の教科書にありますから、すでに、学習した人がいるでしょう。
声を出して読んでみるといいですよ。感じがつかめるまで「音読」です。

いま、世界中の国家・社会が大混乱ですね。核兵器の使用をほのめかす人も出て、人類撲滅後の未来世界を想像されて「怖い」です。

同じ状態を約1300年前に、唐の詩人の杜甫が「国破山河在」と詠ったのが『春望』です。城郭都市「長安」の景色です。

しかし、富士山は白い雪を被って、今年も悠然と構えているし、
山・河の新芽は、勢い良く伸びて、次第に緑の葉色を強めています。
城春草木深」です。
多分、ヒマラヤ・アンデスの美しさも変わらなく静かでしょう。

人間と自然の「対句」です。作詩的には「五言律詩」です。
この自然の営み・風景は変わらないのに、
政治の責任者である玄宗皇帝は、楊貴妃にうつつを抜かし、「統治の統率力」を失い、人心は乱れ、混とんとしてしまいました。

嘆かわしくて、鳥の鳴き声を聞いただけでもオドオドし、涙が込み上げてくる。これは、現在の世界・日本の混乱と似ています。この不安定さに心を癒してくれる人は誰でしょうか。
時空を超えて『春望』です。 

当時の国際都市「長安」は、「安史の乱」(755~763年)のために大混乱に陥ってしまいます。下級官吏の杜甫にはどうしようもない。
長く果てしない混乱を、「烽火連三月」と嘆くしかできない。

コロナで混乱した東京・パリ・ロンドン・NYとイメージが重なります。
家族からの手紙は宝物です。
哀しくて、髪の毛を整えても、「簪が滑り落ちてしまうほどにやつれた」と杜甫は嘆きますが、現在の世界中の人々も「同じ嘆きと恐怖」の前で立ち尽くしています。

<チョット寄り道>

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は、芭蕉の俳句です。
これは「奥の細道」のなかにありますが、この句の前に「春望」の一部が記されています。こういうことを「本歌取り」と言います。
つまり、和歌の技法で、有名な古歌の一部を取り入れて、歌にふくらみを持たせる技法です。
こうした技法は日本の伝統文化ですが、最近は学習の機会が激減しています私は「覇権主義者たちの夢の跡」と詠む詩人に逢いたくありません。

2 「春暁」 孟浩然

    春眠不覺曉   處處聞啼鳥  夜來風雨聲   花落知多少

「眠たいなあ!!」「もぅ少し寝かせておいてよ~~~」という朝がありますね。ダラダラとした時間と空間・・・楽しいんですよねえ!!(笑い)

この詩も中学校の教科書に載っていますから、すでに学習した人がいるでしょう。「春眠暁をおぼえず・・・」なんていって、朝寝坊をするのも楽しいですね。しかし、これは忙しく働いたり、勉強している人にいえることです。「トロトロする快さ」は,暇を持て余している人には味わえないのです。ここがツボです・・・(笑)

どんな試験でも、受験を控えた人は、我慢しましょう。のんびり遊んでしまうと、取り返しがつきません。学習は日々の積み重ねです。一端、「学習のリズム」を狂わせてしまうと、取り返すのに2~3倍の時間とエネルギーがかかります。自動制御・自己コントロールが効かなくなるからです。

決まった時間に起床し、食事をして、勉強し、運動をする。その「規則正しい生活」が基本です。
しかし、どんな時でも、鳥の声に耳を傾けたり、花を観賞したりする「ゆとり」も忘れないようにしたいですね。焦りは禁物です。

今日やるべきことは、今日やること」です。明日のことを思い煩うより、今に集中するべきだと新約聖書にもありますね。そう思っても、そのようにできないのが凡人なのですが・・・許してもらいましょう。(笑い)

<チョット寄り道>

漢字は「表意文字」ですから、一つ一つの文字が意味を持っています。
記号」ではありません
中国の戦国時代までに、様々な文字が生まれました。「大篆」です。
秦の始皇帝が国家統一のために、宰相李斯に命令して「小篆」を造らせました。文字を整理したのです。
しかし、日常実務には使いにくいので、やがて「隷書」が生まれました。

諸橋徹次氏が中心になって編集した『大漢和辞典』に、収録した親文字だけで5万余字・熟語53万あります。ものすごい数ですね。
この機会に、甲骨文字・金印文字から行書・草書も併せて「文字の歴史」を調べると楽しいですね。

3 学而  論語

   学而時習之 不亦説乎  有朋自遠方来 不亦楽乎 

   人不知而不慍  不亦君子乎

論語』を通して、孔子が伝えたかったことを大きく捉えましょう。
孔子は、「為政者・社会的な指導者の心得」を述べています。
孔子は諸国の為政者を廻って「論語にまとめられたようなこと」を話していたのですから、この点に留意しないと、理解が深まりません。

一般庶民に向けての教育内容ではないのです
当時の「」は、「」に従属する「民」でした。
現代の「人権思想」とは程遠いのです。

だから、現在でも「人権思想は、西欧の思想であって、中国では受け入れられない」というのですね。
SNSが発達するなど、グローバル社会になって、民が目覚めてきたので、もろもろの課題・摩擦が生まれているのが、中国の現状です。

毛沢東の指導の下で行われた「文化大革命」では、
政治的な利用の中で「批林批孔」が叫ばれました。
批判したかった対象は別にあったようですが、「孔子の思想」は儒教ですから、批判の対象になったのです。

しかし、最近は「孔子の思想」は「社会主義思想」と両輪の教育が推進されています。
この流れを、どのように考えたらよいのでしょうね。

漢文には、過去・現在・未来など、時間がありません。
また
「返り点」のつけ方により、いろいろな読み方が可能なのです。
読み方を「比較する」と発見があります。

<チョット寄り道>  パレートの法則
あなたは「パレートの法則」を知っていますか?
イタリアの経済学者パレートが「80対20の法則」
経済分野で提唱しているのです。

ばらつきの法則」として親しんでいる人もいます。
この法則によれば、どのような集団でも、この比率に分けられるというのですね。
この「20%に属する人」と「貴」が通じるものがあると思います。
世界の富も、この20%の人たちに握られていて、残りの80%の人が「庶」であって、貧しい生活を送らざるを得ない・・・
皮肉のようですが、「パレ―トの法則」は知っていた方がいいと思います。

「学而」は論語のスタートに記述されているもの

「学而」は、為政者が心得るべきことをはっきりと述べています。が、庶民の「あるべき姿」として、重要なことを示唆していますね。

特に「しっかり勉強をすること」。「マスターできるまで繰り返すこと」。「しっかり考える人間である」こと。これらを「楽しむレベルまでもっていくこと」など・・・重要だと思います。

そして「有朋自遠方来 不亦楽乎」です。
「同じ志」を持つ朋友が、遠方からも集まってきて切磋琢磨することです。こんなに楽しいことはないと言い切っているのですが、共感します。
とても「裏金問題」で右往左往する次元ではありません。

誰が、何といおうが、学ぶことに徹する。楽しいものは楽しい。
それ以外は気にしない。「人不知而不慍」です。

<チョット寄り道>

プログラミング言語」は、人間がコンピュータに命令を指示するために造られた言語ですね。
コンピュータが「曖昧さをなくして、解析できるように作られています」から、私たちが日常使っている「自然言語」と違いますね。
ロジカルな言語です。

初心者向けから、専門家に至るまで多様な言語があるので、一概には言えませんが、今後、あなたがマスターしなければならない言語です。
初心者は、Python ・HTML・CSS・PHPなど、興味・関心がある方向を選択して学習すると良いです。
Java をマスターしたら就職に有利とか、いろいろなことが言われていますから、プログラミング言語にも関心を持つと良いと思います。

4 「偶成」 朱熹

      少年易老学難成 一寸光陰不可軽 
      未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声

「偶成」とは、偶然にできた詩というような意味ですが、
朱熹(朱子)は哲学者ですから、いろいろなイメージを持っていたと解釈していいでしょう。これは朱熹の作品ではないという説もありますから、「愚成」がいいでしょう。

15歳の頃の私は「夢と野心」に燃えていました。
前途に何ら不安を感じることもなく、何でもできると信じていました。
あれから何十年か経過しました。
私に待っていたものは、様々な社会的な事件や、個人的な難問でした。
これらと必死で闘い、乗り越えるのが私の人生でした。

いま、夢を語り合った仲間たちは、80歳を過ぎて、それぞれの人生の軌跡を残しています。もはや「優・劣の世界」ではありません。「あの時、あの人は、こうしたから、こうなった・・・」とか・・・(笑い)
まさに軽んじなくても「光陰」は瞬時に通りさって行きました。(笑い)

そしていま私は、「偶成」を、「誰」が「何歳の時」に「何を思って」「何を対象」にして書いたものかと考えています。
朱熹が書いたなら、彼は70歳で亡くなっていますから、「偶成」は40~60歳の間に書かれたと考えられます。平均寿命が短い時代でしたが、随分、早熟な人物だったんだな・・・とか。(笑い)

「少年易老学難成」なんて、若い人は書きませんからね。

若くて、生命力あふれる人は「一寸光陰不可軽」と絶対に詠いません。
これは老成した人の諫めの言葉です。読み違えると大変です。

だから、現在のあなたは、恐れることなく「夢や野心を燃やす時」だと思います。一寸の光陰も「輝けるヒカリの中」にあるのです。

「池のほとりでボンヤリしていたら、すぐに歳を取って、秋風に散る落ち葉になってしまうぞ」と、ライターは後輩に注意を促していますが・・・
私は「未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声」という警告は不要だと思います。

人生100年時代です。
あなたには、「凛として生きる人」で
素直で広く生きていくことを勧めます。ひねくれや狭さはいらないです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

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