見出し画像

日本の「あけぼの」を実感しよう

 「百舌鳥古墳群」にいったら、守衛さんに呼びとまられました。
私のスタッフに、大声で解説していただけなのですが・・・
4~5世紀の古墳時代に、どんな技術で、どれほどの人数で・・・
このスケールの大きい建築物ができたのか。
すごい権力構造があったのですね。

仁徳天皇陵

明治になってから「大きな古墳」は、天皇陵に指定されて、科学的な検証・発掘が許されなくなりました。古墳が「宗教的聖地」になったからです。
私たちが知らない時代が「日本のあけぼの」なんて、ロマンですね。

豪族の勢力範囲

この時分、明日香の盆地は「物部」「大伴」「蘇我」などの豪族が争っていましたが、この一つが「大王家」で、いまの天皇家の祖先だといわれます。

1)「明日香村」は、日本の原点です

私は、息子たちが小さなころに、毎年夏休みに、自転車に乗って明日香村を走りました。現在は、観光化が進んで、自家用車でまわる人が多いようですが、徒歩と自転車を勧めます。暑くても、寒くても、「吹く風」が違います。くたびれたら、木陰で休みました。

聖徳大志ゆかりの橘寺
大和三山

まず、甘樫丘に登って「大和3山」を見るところから始めます。大和三山「畝傍山」「耳成山」「香具山」があって、その三角形の中央に「藤原京」が造られたのです。
そして、ビックリすることは、明日香村から「藤原京」から「平城京」まで、「古代の道」が一直線でつながっていることです。

古代の道

ここに高度な測量技術・土木技術があったことが分かります。
「下ッ道」は、藤原京の大極殿まで繋がっているのです。「中ッ道」・「上ッ道」が繋がります。生駒山・二上山・法隆寺・大和川に注意します。
高松塚も、歩く範囲でした。    

<チョット寄り道>  手塚治虫の「火の鳥」
手塚治虫の「火の鳥」は、日本の国家の成立がわかりやすく、ドラマティックに描かれています。生命=生きる力が描かれています。        

手塚治虫:火の鳥

日本の古代史を知る導入篇としてお勧めです。
私は奈良の東大寺の建設で瓦職人を描いた「鳳凰篇」が傑作だと思っています。

2)法隆寺を建立した目的は・・・

現在の法隆寺は、世界最古の木造建築で有名ですが、地理的な意味で考えると、全く「異なる顔」をもっていました。  
    

法隆寺    

聖徳太子は、ライバルの蘇我氏と張り合うために、この「情報と物流の要地」に、戦略的に「法隆寺を建立した」と考えられるのです。
表向きは「学問所」ですが、意図するものは違いました。「戦略的な拠点」という意味です。

当時の寺は、広い伽藍を持ち学問僧が集まる「総合大学」のようなものですが、実態は政治的建造物を兼ねていたと思われます。      
ここは.「生駒山」と「二上山」に挟まれた土地です。「大和川」「飛鳥川」という物流の拠点です。川は、現在の高速道路のようなものだと考えるとよいでしょう。地図を俯瞰してみると理解しやすいですね。

日出いずるところの天子・・・

7 世紀初 、607年。小野妹子は 推古天皇 の 時代  の役人です。 彼は、はじめての 遣隋使  として中国につかわされましたが、実はその前から、いろいろな交流があったことが中国の記録から発見されています。
「日 出 い づるところの天子……」という国書を、隋の 皇帝・煬帝 に国土の端・地方の野蛮国・日本から「天子」の称号をもって、「対等の国交」を結ぶ挨拶状を見て激怒したといわれます。が、歴史的な背景から言って無理がありますね。しかし、日本の国政が整い、「大国と外交を結ぶ」という姿勢は重要ですね。日本からこのプライドを外して欲しくないですね。

現在も途上国から「大量の研修生」を受け入れ、将来を見据えた友好関係を築こうと努力しています。が、糸は細いです。

<チョット寄り道> 歴史の進歩は学説の多様性とつながる
聖徳太子について記述したものは「古事記」「日本書紀」ですから、100年後です。厩戸皇子(574~622)と聖徳太子が同一人物だという説が強かったですが、最近は揺らでいます。いろいろな記述があわないのです。

瀬戸内海は、大陸の大きな河川と同じ規模である

堺港から、明日香の石舞台の地まで、外国船が「物資・情報を運んだ」というのですから、現在の地形からは想像できません。その首根っこです。如何に重要な拠点であったかが分かります。
明日香には、知識と技術のある渡来人が沢山住んでいました。観点を変えて考えると「新しい発見」があります。

飛鳥寺

「鞍作鳥(くらづくりのとり)」の作といわれる飛鳥大仏をみると、どうしても、渡来人の鼻・頭蓋であって、どう見ても日本人の顔ではないです。  

石舞台遺跡

ペルシャ人もいたようですね。拝火教(ゾロアスタ―教)の遺跡じゃないかと思われるモノもあります。想像力こそロマンの原点です。
大學入試で、日本のグローバルという観点で、出題されるかもしれません。 万葉歌人の額田王の恋歌「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」は「万葉集」にありますが、大胆です。(笑い)         

額田大君:安田靫彦作  

天武天皇といっしょにいながら、遠方の天智天皇の「愛のサイン」を喜んで受けている。野外で愛の交換を堂々としているのです。
天智天皇が蒲生野で狩りをしていた時に、弟の天武天皇の愛人が「この時の様子」を見に来たので、詠ったのですから、二人の天皇をまたにかけた恋歌は派手ですね。
現代の女性以上に、古代の女性は、「奔放」で「自由」です。

<チョット寄り道>
日本画にはいろいろな流派があります。「琳派」は、俵屋宗達・尾形光琳・酒井包一ら。
「狩野派」は、狩野永徳・山楽・芳崖らです。
明治になって西洋から油絵の技法に刺激されて、日本画も多様に変化し、素晴らしい作品が生まれました。
横山大観・菱田春草・橋本雅邦・上村松園・竹内栖鳳・小倉亀遊・平山郁夫・東山魁夷・・・

小倉遊亀 :径

安田靫彦は、伝統に縛られず、古代を画材に選びながら独特の美の世界を創造しました。

ほんとうに「大化の改新」があったの?

天皇中心の政治体制が整ったといわれるのが、645年の「大化の改新」です。教科書でも習いましたが、果たして「大化」という年号があったのか、否かという「学問的な議論」があります。
古事記・日本書紀は『正史』ですから、中臣鎌足とか中大兄皇子に都合がよい記述が多いというのも、あながち否定できないですね。

口述したという「稗田阿礼」という人物さえ「実在したか、否か」の議論があります。正史を書いたゴーストライターの存在も無視できません。

遣唐使船

それはともあれとして、飛鳥から奈良へと発展し、遣隋使・遣唐使を派遣して先進文明を積極的に導入し、わが国の発展を図ったことは事実ですね。
多くの留学生・仏僧は、いったん寧波に上陸し、天台宗・国清寺で語学研修をしてから、長安に向かったといいます。最澄はこのルートでした。
  

遣唐使が残した影響は大きい

遣唐使と共に唐にわたった仏僧「最澄」は、官費留学のエリートでしたが、「空海」は私費留学生でした。二人は、当時中国で流行していた「密教」を学び、日本の仏教の発展に大きく寄与し、影響を残しました。
帰国してから、最澄は庇護を受けて「比叡山」を開き、空海は地方から実力をつけて「高野山」を開いたのです。

私は、35年前に、静岡県と中国浙江省の「友好提携事業」に携わったので、中国の寧波に行ったことがあります。
現在は整備されていますが、当時は文化大革命の名残もあって、田舎の港町にすぎませんでした。防潮堤を歩いてみると、夢と野心をもって日本からきた留学生・留学僧の「声」が聞こえてくるようでした。
 
<チョット寄り道> 律令国家とは
遣隋使・遣唐使が持ち帰った中国の文物は、日本の国家形成に大きな影響を残しました。奈良の「律令国家」は「律(刑罰・禁止法規)」・「令(行政の規定)」を整えるとともに、
寺院を造営し、財政援助をすると共に仏教思想の管理統制を強化しました。

宗教的には、仏教は、「豪族の現世利益」のためのものから、「鎮護国家」に組み込まれ、聖武天皇は東大寺、地方の国分寺・国分尼寺を造り、国家の形を整えました。
東大寺の大仏(盧舎那仏)の開眼供養にはインド僧も参加したといわれます。

日本の「あけぼの」には、ドラマがあります。

日本の神話は面白いです。アマテラスからスサノウ・コノハナサクヤヒメ・オオクニヌシなど、馴染みのものが多いですが、元々はインド製のもの、中国製のものなどグチャグチャだったようです。これも楽しいです。
最近は、アニメにしろ、宇宙ものにしろ「ゆとりとロマン」がないものが多いですね。脅迫・殺人・詐欺・不倫の物語の中にロマンを見いだすことの方が難しいです。やっぱり、世相を反映しているのですね。困ったことです。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?